二十六話 ……なに、この人達。
路地裏の魔法工房。
「ファナお姉ちゃん。悪妻ファルファナ様の噂って知ってる?」
「――え?」
ユラの何気ない一言に、思わず手が止まる。
しまった、と気づいた瞬間――ぽんっ。と小さな破裂音とともに、釜の中から黒い煙がふわりと立ち上がった。
「ああっ!」
慌てて中をのぞき込むと、さっきまで順調だった素材は黒焦げの塊へと姿を変えている。
「だ、大丈夫? ファナお姉ちゃん!」
「あはは……うん。私は大丈夫」
苦笑しながら答える。
せっかくの素材だったのに、見事に失敗しちゃった。
「ファナ、怪我は?」
破裂音を聞きつけたヤト先生が、足早にこちらへやって来る。
「ごめんなさい、ヤト先生。素材を駄目にしちゃいました」
「いいよ。怪我がないのが一番だから」
ヤト先生、優しい……!
先生は私の手や顔をひと通り確かめると、ようやく安心したように息をついた。それから壁に掛かった時計へ視線を向け、小さく笑う。
「ちょうどいいし、少し休憩にしようか」
「……はい」
先生に促され、工房の隅にある休憩スペースへ移動する。
木製の揺り椅子に腰を下ろすと、淹れてもらった温かいお茶をそっと口に運んだ。はぁ……ほっとする。
「でね、ファナお姉ちゃん。さっきの悪妻ファルファナ様のお話なんだけど」
穏やかな時間は、一瞬で終わった。
無邪気な笑顔で切り出したユラに、胸がまたどきりと跳ねる。
「ファルファナ様って……確か、スエイル様の奥様だよな?」
「そうだよ」
そこへヤト先生も椅子に腰掛けながら加わる。
「ユラ、その噂はどこで聞いたんだ?」
「孤児院だよ。皆がお話ししてたの」
ユラはこくんと頷くと、少しだけ表情を曇らせた。
「あのね……悪妻様って、すごく怖い人なんだって。平民のことを人とも思ってなくて、使用人を泣かせるために無茶な命令ばっかりして……」
「……へぇー」
乾いた声が漏れる。
「気に入らない料理を出した料理人さんを井戸へ突き落としたり、自分に逆らう人を火あぶりにしたり」
悪評が盛られすぎてる。
それ、もう私じゃなくて怪談に出てくる魔女じゃない?
「それだけじゃないの。……孤児院のお金を盗んでいたのも、ファルファナ様なんだって」
「ユラ。まだ噂だろう? スエイル様の奥様を、本当かどうか分からないことで決めつけちゃ駄目だよ」
「あ。……ごめんなさい」
ヤト先生に諭され、ユラはしゅんと肩を落とした。
――でも、ユラが信じてしまうのも無理はない。
あれから私の悪評は町中へ広がり、尾ひれどころか翼まで生やして飛び回っている。どれもこれも事実じゃないのに、噂はいつの間にか本当の出来事みたいに語られていて。
まるで「小説の中の悪妻ファルファナ」そのものだった。
「ファルファナ様……その、無色なのに自分だけは特別だと思い込んでいるって噂があって……。無色を嫌っているって話も聞いたから、心配で……」
小さな手でコップをぎゅっと握りしめるユラ。その姿は、心の底から悪妻を恐れているようで。
うぅ……事実無根なのに。ユラに怖がられちゃうのは悲しいなぁ。
「じゃあまたね、ファナお姉ちゃん。ヤト先生」
やがて日が暮れ始め、ユラは家路につく。
小さな手をぱたぱた振る姿が可愛くて、私も大きく手を振り返した。ぱたん、と扉が閉まる。それと同時に、ヤト先生は私に視線を向けた。
「ファナも帰りなよ」
「ええー、もう帰らないと駄目なんですか? あともう少しだけ……お願いしますっ!」
両手を胸の前で合わせてお願いする。
だって、まだまだアルケミアを作っていたいんだよね。
「駄目」
だけど先生は即首を振った。
「ファナには旦那さんもいるだろ」
「旦那様、最近ぜんぜん帰ってこないんです。だから遅くなっても大丈夫ですよ」
執務室へ呼び出されて以来、旦那様は仕事が立て込んでいるのか屋敷にまったく戻ってこない。
帰ってくる気配すらないし、ここ最近は顔どころか声も聞いていない。
「というか、まだ離婚してなかったんだな」
「はい。一度旦那様とお話してみたんですけど、駄目でした」
ヤト先生は少し考え込むように眉を寄せた。
「本当に離婚したいのか?」
「勿論です。旦那様も私と同じ気持ちですから」
「……なら、どうしてまだ離婚してないの」
静かな声。心配してくれているのが、まっすぐ伝わってくる。
「したいのは山々なんですよ? でもお父様とお母様が『家の利益のため』って離婚に大反対していて、許してくれないんです」
「スエイル様に相談はしてみたのか?」
「してはみましたが、だめでした」
「……ファナの話を聞けば聞くほど心配になるよ」
あっけらかんと言う私とは対照的に、ヤト先生は額に手を当て、盛大なため息を吐いた。
「とにかく夜は危ない。路地裏にはガラの悪い連中だっているんだから……遅くまで外にいるのは駄目だよ」
「ぱぱっと殲滅いたしますが」
「せん――」
私の顔を見つめたまま、先生がぴたりと言葉を止める。
否定しようとしたのに、私なら本当にできてしまいそうだと思い直したらしい。
「……殲滅は、止めよっか」
静かな声が落ちた、その時。
コンコン、と控えめなノックが工房の静けさを揺らす。ゆっくりと扉が開き、入口に吊るされた鈴がカラン、カランッと軽やかな音を響かせた。
「失礼いたします。こちらが、路地裏の魔法工房でよろしいでしょうか?」
現れたのは、若い男女二人の姿。
羽飾りのついたお洒落な帽子に光沢のある上質な外套。靴から手袋に至るまで、一目で仕立ての良さが分かる装いだった。路地裏には、どう見ても似つかわしくない。
むしろ公爵夫人として社交の場で見かける貴族達のほうが、ずっと近い雰囲気に感じる。
「珍しいお客様ですね」
ここは細々と依頼を受けながら営んでいる小さな魔法工房。
顔馴染みがふらりと立ち寄ることはあっても、こんな人達が訪ねてくることなんて、まずない。
「そうだな」
ヤト先生も静かに頷き、二人を迎えるように一歩前へ出た。
「いらっしゃいませ。この工房に……何のご用でしょうか?」
柔らかな笑みを浮かべたまま、二人は返事をする代わりに店内をゆっくりと見回す。
やがて商品棚の前で足を止めると、男性は《温かみのペンダント》を指先でつまみ上げ、女性は《夢見の袋》を手に取って、品定めをするように眺め始めた。
「うん……こちらが工房の商品ですか」
「見た目はとっても愛らしいのですけど……仕上がりが、いささか心許ないですわね」
声は穏やかで言葉遣いも丁寧。なのに、その一言は工房のアルケミアへの不満を隠そうともしていない。
二人はゆるやかに顔を上げ、先生へ視線を向ける。
「失礼。最近、この工房の商品を使って怪我をされた方がいると伺いましてね」
「と、当工房で怪我人を出した覚えはありませんが……いったい、どなたが?」
先生が困惑したように問い返すと、二人はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「お名前は伏せますが、『路地裏の魔法工房は危険だ』という噂が、帝都で広がりつつあるようでして」
「こちらでは無色の方が品をお作りになっていると伺いました。一般のお客様が不安に思われるのも無理はないでしょう?」
最後の言葉とともに、二人はくすくすと笑いながら、私達を見下すような視線を向けた。
……なに、この人達。




