二十五話 《路地裏魔法工房の大ピンチ》
《路地裏魔法工房の大ピンチ》
『いい加減にしろ、ファルファナ!』
『きゃあっ』
ぱしん、と。
近いようで遠いようで――距離の分からない場所から、頬を叩かれる音が響いた。
……ああ、このふわふわした感じ。身体が軽くて、足元がどこにもないみたいで。また夢の中に落ちているのだと、ぼんやりと思う。
『お前は悪い子にすらなれないのか!? 外ではもっと我儘に振舞えと言っているだろう!』
『ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、お父様っ! いや……私を嫌わないでっ。お父様とお母様に見捨てられたら、私は……!』
頬を押さえ、体を震わせながら必死にお父様に縋りついているのは――私。
転生する前のファルファナの姿だった。
『まぁまぁ。大丈夫かしら? ファルファナ』
お母様は優しく頬へ触れ、回復魔法をかける。
痛みが消えたことに安心したのか、ファルファナは泣きじゃくりながらお母様へ抱きついた。
『お母様ぁ……』
『ふふ。でもね、叱られるのは仕方のないことなのよ? 親が子供を教育するのは当たり前のことですもの』
頭を優しく撫でる仕草は、どこまでも慈愛に満ちていて。
『貴女は生まれた時から無色で、皆に嫌われてしまうの。私達に捨てられたら生きていけないわ。でも安心して? お父様とお母様だけは、ずっと貴女を愛してあげる』
甘く、柔らかな声。
だけど、その一言一言は。
『ファルファナは本当に特別な子よ。貴女にしかない『とても良いところ』があるの。だから――ちゃんと私達の役に立ってね?』
目には見えない鎖となって、ファルファナの心を縛りつけていく。
『うん……! 私、ちゃんとお父様とお母様の言うこと聞くから……! だから……だから、私を嫌わないでっ。私、一人になりたくないの……!』
――ほんと。ひどい親だなぁ。
「ねぇ」
『っ! だ、誰……?』
肩を震わせ、勢いよく振り返るファルファナ。その瞬間、周りの景色がすっと薄れて――世界が、私と彼女だけになる。
私はすっとしゃがみ込むと、そっと目線を合わせた。
「初めまして! 私はね――今の貴女だよ」
『い、今の私って……?』
紫の瞳が、ぱちぱちと何度も瞬く。
私はとびきりの笑顔を浮かべて、手を差し出した。
「もう大丈夫だよ。ファルファナ。私と一緒に幸せになろうね!」
『幸せに……? 私なんか、が……?』
戸惑うように私と差し出された手を見比べる。
しばらく迷っていたけど……ファルファナはやがて、ゆっくりと手を重ねてくれた。
◇
エルライン公爵邸の執務室。
朝から旦那様に呼び出された私は、机に肘をつき、じっと私を睨んでいる旦那様と向き合っていた。
「今度はいったい何をしでかした?」
……何を? えっと、何だろう。
私はいつも大人しく過ごしているつもりだから、心当たりなんて一切ないんだよね。それよりも……執務室に入れてもらえたの、実はこれで二回目! 旦那様の大切な仕事場で普段は滅多に入れない場所だから、胸がわくわくしてる。
詰められているはずなのに、つい部屋の中をきょろきょろ見回してしまった。
「……ファルファナ。話を聞いていないだろ」
「あ、はい。ごめんなさい」
慌てて視線を戻すと、旦那様が小さくため息をついた気がした。
「君の悪評が出回っている」
「それって……もういつものことじゃないんですか?」
転生してからというもの、ファルファナの悪い噂は日常茶飯事だ。
頬に指を添え首をこてんと傾げる私に、旦那様は何も言わず、机の上へ積まれた書類を指先で示した。
「これらは全て君への苦情だ。夜会で他人のドレスを踏んで破いた、舞踏会でわざと相手の足を踏んだ、お茶会で他家の令嬢の髪型を笑った、立ち寄った商店で公爵家の名を使い商品を無理やり値引きさせていた、馬車を強引に使った」
次から次へと読み上げられる私への苦情。
最後の紙を手に取った旦那様は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「婚約者のいる男性を誘惑したというものまであるぞ」
「事実無根です」
はっきりと言い切る。
だって本当にそんなことしてない。第一、毎日忙しく錬金術に取り組んでいる私に、どこにそんな時間があるとでも?
「……君がそんなことをしていないのは、分かっている」
「えっ、私を信じてくださるんですか?」
ぱぁっと顔が明るくなる。
だって、悪妻の私を旦那様が信じてくれるなんて……そんなの嬉しすぎる!
けれど私の笑顔を見た途端、旦那様はなぜか眉をひそめ、不機嫌そうに視線を逸らした。
「信じたわけじゃない! 君の最近の振る舞いや、錬金術に取り組んでいる姿勢を見て総合的に判断しただけだ」
「信じてくれるってことですよね!」
うんうん。真面目に生きていて良かったぁ。
旦那様はバツが悪そうに小さく咳払いをすると、表情を引き締めた。
「事実無根だとしても、苦情が寄せられているのは事実だ。君の以前の悪評がひどすぎるせいで、噂が広まりやすくなっているのも否定できない」
「私は何も気にしません」
「少しは気にしろ」
ぴしゃりと言い切られ、思わず肩をすくめる。
旦那様は机の上の書類へ視線を落とすと、その束を指先で軽く叩いた。
「……問題は噂の内容ではない」
「問題?」
「短期間で、これだけの苦情が一斉に集まったことだ」
言われて私も、改めて書類へ目を向ける。
「夜会、舞踏会、お茶会、商店……場所も相手もばらばら。それにもかかわらず、まるで示し合わせたように同じ時期に苦情が届いている」
「そう言われれば……そうですね」
そっと手に取ると、記載されている日付は、どれもここ数日のものばかりだった。
「偶然とは考えにくい。誰かが意図的に君の悪評を広めている」
「私、そんなに嫌われてるんだと思ってました!」
「嫌われていることと、誰かが扇動していることは別問題だ」
言い切ると旦那様は引き出しから別の書類を取り出し、私の前へ差し出した。
「調べたところ、証言した令嬢達には共通点がある」
「共通点?」
「全員、ここ一か月でミシュラート侯爵夫人のお茶会へ出席している」
その名前に、胸がどくりと鳴る。
「お母様ですか」
あの親子喧嘩をした日。
あれだけ大騒ぎして帰ったお父様とお母様が、このまま大人しく引き下がるとは思っていなかったけど。
「わざわざ私を悪い子に戻すお手伝いをしてくれるなんて……ほんと、教育熱心だね」
思わず苦笑が漏れる。
旦那様はそんな私をじっと見つめると、静かに口を開いた。
「侯爵夫妻と何があった? 正直に話せ」
「え……っと」
逃がさないという、どこか圧のある声色。
誤魔化しても意味はないと、そう言われている気がする。
「ガラドから、侯爵夫妻の様子が明らかにおかしかったと報告があった。何か裏があるのではないか、と」
「ガラドが」
壁際で静かに控えていた彼へと視線を向ける。
ガラドはいつも通り背筋を伸ばし、目を閉じたまま静かに控えていた。まるで最初からそこにある彫像みたいに一切動かない。
……あの時のことを心配して、旦那様へ報告してくれたのかな。
「私は、お父様とお母様に『悪い子になりなさい』と育てられてきました」
「……は?」
旦那様の目がわずかに見開かれる。
別に隠すつもりはない。この話を知られると都合が悪いのは私じゃなくて、お父様とお母様のほうなんだから。
「結婚したら『悪妻として暴れなさい』って。それができていないから怒って、公爵家まで乗り込んできたんです。だから今は私を悪い子に戻そうと、いろいろ画策しているんじゃないでしょうか」
執務室が、しんと静まり返る。
旦那様もガラドも何も言わない。その沈黙だけが、私の話がどれほど異常なのかを物語っていた。
「悪い子……? それはどういう意味だ。何のためにそんなことをさせる?」
「さぁ、何でしょう? 毒親の考えることはよく分かりません。お疑いなら、お父様とお母様から送られてきた手紙があるので、お見せしますよ」
さすがに「悪い子になれ」なんて直接的な言葉は書いていないけど、私を罵倒する文章ならしっかり残っている。表面上は「良い親」を演じていた二人からすれば、痛い内容でしょ。
「偽装した、と言われてしまえばそれまでですが」
そこで一度言葉を切り、旦那様を真っすぐ見つめ返す。
「お父様とお母様が犯罪組織と繋がっていることは、間違いないと思いますよ」
サロンの女主人は、二人を知っているような口ぶりだった。それに私は、侯爵家の捨て駒だとも。
――さて、本当に悪い子はどっちなんだろうね。
「お願いだから……私の幸せの邪魔は、しないで欲しいなぁ」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど冷たかった。
これ以上、喧嘩を売ってくるなら……その時はもう立ちはだかる敵として、お父様とお母様と本気で向き合うしかないんだから。




