二話 《離婚後の生活、考えます》
◇ Side ミシュラート侯爵夫妻
「離婚だと……!? ファルファナがスエイル様と……っ!」
ミシュラート侯爵邸の一室。
スエイルからの報告を受けた侯爵は、信じられないものを聞いたように目を見開いた。充血した瞳が震え、握りしめた拳がわなわなと震えている。
「まぁ……なんてことかしら」
その隣では侯爵夫人が優雅に頬へ手を添え、ふぅっと小さくため息を漏らした。
「あの子、また余計な真似でもしたのね。本当に……どうしてあんなに手のかかる子なのかしら」
「あの出来損ないを公爵家に押し込むために、どれほど骨を折ったと思っている……! それを自ら手放すとは、なんという愚かさだ!」
二人の声音には、娘を案じる気配など一欠片もない。ただ期待外れの駒を嘆く冷たさだけがあった。
「少し甘やかし過ぎたのかもしれないわね」
「まったくだ!」
薄暗い部屋に侯爵の怒声が響く。
どんっと壁を殴りつけ、ぎり、と歯を噛みしめた。
「離婚など認めない。と送り返してやる! 娘が離婚を望むはずがないとな。それに……万が一離縁が成立したとしても、あの子を家に戻すつもりはない!」
「まぁ……そんなに怒らないであげて、あなた。きっと少し気が迷っただけよ」
不信は夫の背を軽く撫でながら、穏やかな声を落とした。
「またきちんと言い聞かせましょう? そうすれば、あの子もすぐに正気に戻るはずだもの」
柔らかな笑み。けれどそこにあるのは、娘を案じる母の愛ではない。
思い通りにならない駒を正しい場所へ戻そうとする――ただそれだけの執着だった。
《離婚後の生活、考えます》
「ミシュラート侯爵家から書状が届いた。……『離婚は認めない』、だそうだ」
エルライン公爵邸の執務室に朝から呼び出された私は、机の向こうで明らかな不機嫌を隠そうともしない旦那様から、そう告げられた。
「ミシュラート侯爵家って……私の生家ですよね?」
「当たり前だ。他に誰がいる」
ですよね。でも、私転生者なので。一応の確認です。
「本当ですか? 喜んで離婚に応じてくれませんでした?」
念を押すように尋ねると、旦那様は無言のまま、届いた書状をこちらへ差し出した。
広げてみれば、そこには――「娘が大好きなエルライン公爵様との離婚など望むはずがありません、あの家族想いの子が家を裏切るなど決してあり得ません」と。
涙を誘うような言葉が、これでもかと丁寧に並べ立てられていた。
「この婚姻は両家の利あってこそのものだ。ミシュラート侯爵家の承諾なしでは、離婚は難しい」
「……お父様と、お母様が……」
口元に手を添えて少しだけ考え込む。
でも旦那様の視線に気づくと、ぱっと笑って書状を返した。
「ありがとうございます」
「ようやく離婚できると思ったが……どうやら期待外れだったようだな」
「では、離婚するにはどうすればいいですか?」
間髪入れずに問い返すと、旦那様の動きがぴたりと止まる。
まるで本気でそんなことを聞かれるとは思っていなかった、とでも言いたげな顔だった。
「……諦めるつもりはないのか」
「ありません」
即答すると、旦那様は小さく眉を寄せた。
「皇家の裁可を得るか、婚姻契約違反を証明するかだ」
「契約違反?」
「犯罪行為や財産の不正な処分、公爵家の名誉を著しく損なう行為などだ」
なるほど。悪妻だった頃の私なら十分当てはまりそう。小説でも、きっとこれを理由に離婚したんだろうな。
「あるいは最終手段として、公爵家が一方的に婚姻を破棄することもできる」
「おぉ! さすがは公爵家!」
「ただし、その場合は両家の関係が完全に断絶し、公爵家も大きな不利益を被ることになる。できないことはないが、選びたくはない」
淡々と告げる旦那様。
一番手っ取り早い方法ではあるけれど、旦那様に迷惑をかけるのは私の本意ではない。
「現実的でないことは理解できただろう。分かったら余計なことは考えず、大人しくして――」
「皇家の許可って、どうやってお願いすればいいんでしょう。手紙かな、それとも直接伺ったほうが早いかな」
旦那様の言葉を綺麗にすり抜けて、真剣に次の手段を考える。
その瞬間、旦那様のこめかみがぴくりと動いた。
「――いいか、くれぐれも大人しくしていろ」
念を押すように低く言い聞かされる。
「俺と離婚しても、ミシュラート侯爵は君を迎え入れないだろう。そうなれば貴族令嬢としてぬくぬくと暮らしてきた君が、一人で生きていけるはずがない。……愛を求めず大人しくしているなら、この結婚生活は続けてやる」
冷めた視線に突き放すような声音を向ける旦那様。
なんて……なんて、優しいんだろう!
「旦那様、私を心配してくれているんですね!」
「……は?」
「離婚後の生活にまで気を配ってくださるなんて……! 私のことがお嫌いなはずなのに、本当にお優しいんですね! 感動しました!」
ぽかんと目を丸くする旦那様をよそに、私は勢いのまま言葉を重ねる。
「旦那様の愛情はしっかり受け止めました! 旦那様のためにも、必ず離婚してみせますね!」
「どこをどう聞けばそうなる!?」
がたんっと椅子を弾くように立ち上がった旦那様は、頭を抱えて深いため息をついた。
その後もしつこいほど「いいから大人しくしていろ!」と繰り返し言い聞かされ、ようやく解放されたのは、お昼過ぎだった。
「疲れたぁ」
ぱたんっと部屋の扉を開けて一言。
ここは旦那様――エルライン公爵邸に用意された、私の私室だ。すたすたと迷いなくベッドへ向かい、そのまま勢いよくダイブする。
はぁ……ふわふわで気持ちいい。さすがは公爵家、きっとすごく良い素材なんだろうなぁ。
このまま眠れてしまいそうなのに、ぱちりと目が開いた。
「お父様とお母様が、離婚に反対するなんて思わなかったな」
そう思う理由が私にはある。
「小説ではファルファナの我儘を聞き入れて、仕方なく旦那様との婚姻をもぎ取ったはずなのに」
一目惚れした旦那様と結婚したい。
そう泣きついたファルファナに、両親は最初こそ「できない」と宥めていた。
けれどファルファナは聞く耳を持たず、侯爵家の権力を勝手に使って他の令嬢達に嫌がらせを繰り返し、その暴走に根負けした両親が、最終的に願いを叶えてしまったのだ。
「スエイル様も、令嬢達への被害が広がるのを避けたかったんだろうね」
なにせ、ファルファナの嫌がらせは本当にひどいものだった。身分の低い家なら家が傾くほどの被害で目も当てられない。
今の私は、ただ頭を下げるしかない。
「……お父様とお母様は、ファルファナの我儘に振り回されていた被害者だと思っていたんだけどなぁ」
ファルファナが断罪された時も、二人は「悪妻を生んだ親」として世間から責められていた。
それでも、どちらかといえば同情する声の方が多くて……読者の間でも「可哀想な両親」という扱いだった。私だって、ずっとそう思っていた。
――だから離婚したいと伝えれば、きっと喜んでくれるって。
「小説とは相違点があるのかな? ……ふふ、前途多難だね」
微笑んで、私はそっと体を起こした。
「さて! 実家に帰れないとなれば、離婚後は一人で生きていかなきゃいけないわけだし! まずは生活基盤を整えないとだよね!」
前世の私は、自立なんて夢のまた夢だった。誰かの助けがあって、やっと生きていけた。
特に両親には感謝してもしきれない。私の医療費を稼ぐために、毎日懸命に働いてくれていたから。働く両親の背中はいつも誇らしげで、楽しそうで。
だからずっと憧れていた。
「まずは職探しかなぁ。働いたことはないけど、なんとかなるよね!」
離婚にはまだ時間がかかりそうだし。
一旦、離婚問題は脇に置いておいて、その後の生活のことを考えよう!




