一話 《目が覚めたら悪妻でした》
《目が覚めたら悪妻でした》
――目が覚めたら、そこは豪華なシャンデリアが煌めくパーティー会場だった。
「いい加減にしろ。君は……どれほど俺を苛立たせれば気が済むんだ、《ファルファナ》」
開口一番、知らない男の人にそう言われた。
その隣では、目元を押さえた女性がひっく、ひっく、と肩を震わせて泣いている。
……え、なにこの状況。
周囲から向けられる視線は冷たい。まるで私が……とんでもないことをしでかした後みたいだ。
「ひっく……私、ただスエイル様にダンスを申し込んだだけなのに……」
震える声でそう訴えると、彼女はさらに涙をぽろぽろ落とした。
男の人――《スエイル》様と呼ばれた彼は、泣いている女性に一度視線を落とし、それからゆっくりと私を見た。
銀色の髪が揺れ、赤い瞳がまっすぐに射抜いてくる。
綺麗すぎて、ちょっと現実味がない。テレビに出てくる俳優さんみたいだなぁ……なんて、呑気に考えてしまった。
「結婚はするが愛は求めるなと言ったはずだ」
「はぁ」
大変お怒りなのは分かるけど、私には心当たりゼロ。
――とりあえず誰? 結婚? 結婚どころか、彼氏の一人だっていた覚えないんだけど。
「私と貴方は、結婚しているんですか?」
その瞬間、彼の眉がピクリと動いた。
「ふざけるな。君が、俺との結婚を強引に望んだんじゃないか」
低く落とされた声には鋭い冷たさ。宝石みたいな赤い瞳が、怒りでいっそう際立って見える。
私は考える時の癖で、頬に人差し指を添えながら周囲を見渡した。
――見覚えのない空間に人々。おかしい。私は……「病院」のベッドの上にいたはずだ。それに、私はファルファナなんて名前じゃない。
私の名前は――《西園寺 邑亥》だ。
「まさか……これが、かの有名な転生ってやつ?」
「なにをわけの分からないことを言っている。いいか? 婚姻を続けたいのなら問題を起こすな。……大人しくしていろ」
思考を張り巡らせている間にも、突き放すような冷たい声が降ってくる。
その言葉に周囲の令嬢達はほっとしたように微笑み、一部の人達は軽蔑するような視線を私へ向けてくる。
「貴族同士のダンスなんて、ただの社交の一つでしょう? それに激高して、か弱い令嬢を追い詰めるなんて……さすが恥知らずの『悪妻』様ですわ」
「自分がスエイル様に踊っていただけないからって……ひがみではなくて? まあ、妻のくせに相手にされていないのは、いつものことですけれど」
「でも仕方ありませんわよ。ファルファナ様は教養がないと有名ですもの。ダンスの一つも満足に踊れませんものね」
――ええと。目を覚ましたばかりで状況は全然整理できていないけど。
うん、私ってば皆にすっごく嫌われてるんだね。それだけは、はっきり分かった。
「俺は、君に微塵も興味がない」
追い打ちをかける旦那様の冷たい声。
夫も周りも敵ばかり。ひりつくような視線が肌の上を針みたいに刺してくる。目が覚めたばかりなのに、皆ひどいなぁ。
「……あはは」
「――何がおかしい」
にやりと口角を上がった私に、旦那様は怪訝そうに眉を寄せた。
「いいえ。ただ――わくわくしているんです、旦那様」
「は?」
こんな状況でも面白そうって思える自分に、ちょっと驚くくらい。
「旦那様。大変不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ございません」
しおらしく頭を下げる私に、旦那様の赤い瞳がわずかに揺れる。
私はそのまま、にこっと笑って言葉を続けた。
「私がそちらのご令嬢と旦那様が踊るのを嫌がった、でしたっけ? どうぞどうぞ、好きなだけ踊ってくださいませ。むしろ、私のことなんて忘れて心ゆくまで楽しんでいただけたら嬉しいですっ!」
一呼吸で言い終えた瞬間、会場全体がざわりと揺れた。
空気が波紋みたいに広がって、ざわざわと人々の声が重なっていく。
「嘘でしょう? あのファルファナ様が謝罪されましたわよ!?」
「嫉妬に狂った悪妻が、他のご令嬢とのダンスをお許しになるだなんて……!」
……私は、いったいどれだけの駄々を捏ねてたんだろうね。ちょっとだけ怖くなったけど、気にしないことにした。だってそれどころじゃない。
旦那様の赤い瞳が、まるで逃がさないと言わんばかりに私を射抜いてくる。
でも、少しも視線を逸らす気はなかった。視線が重なりあう中――先に視線を逸らしたのは旦那様のほう。
やった、勝った!
「いいか? くれぐれも大人しくしていろ」
「もちろんです。お任せくださいませ、旦那様!」
胸を張って答えると、旦那様の眉間にさらに深い皺が刻まれた。
そんなに信用がないんでしょうか?
不安そうにご令嬢をエスコートしていく旦那様を、私はにこにこと手を振って見送っていく。ダンスの音楽が流れたのを確認してから――私は、その場を離れた。
「さて。ここは、どんな世界なのかな」
スキップしそうな勢いで、なんならくるりと一回転しながら人混みを抜けていく。私の通る道が自然と開いていくから、避ける必要もなくて楽ちん。
「すごい……歩いても息が苦しくない……! 跳ねても痛くない……!」
嬉しくて、その場でぴょんと跳ねた。もう一回跳ねる。
「体が自由に動く!」
きっと、そんな私を見ていた人達は「また頭がおかしくなったのか」とでも思っただろう。驚かせてごめんなさい。でも、嬉しいものは嬉しい。
前世の私は病弱だった。
物心ついた頃には病院のベッドが生活の中心で、学校より病院にいる時間の方が長かった。
家族にはたくさん愛されて育ったから、不幸だったわけじゃない。でも――健康な体が欲しかった。誰にも心配をかけないように。思うがままに生きれるように。
「こうして願いを叶えてくれたんだもん。今世では健康第一! 前の人生でできなかったぶん、ぜーんぶ楽しんで、精一杯生きていくんだから!」
私はぎゅっと拳を握りしめた。
――そのためにはまず、ここがどんな世界で、自分が誰なのか、ハッキリさせなきゃ。
「ファルファナって名前も、旦那様のお名前も聞き覚えがあるんだけどなぁ」
んーっと眉を寄せて考えてみても、すぐには答えが出てこない。
きっと妹が持ってきてくれた小説のどれかだと思うんだけど。なにせ、暇な入院生活で山ほど読んでいたから、「記憶の本棚」を探るのが難しい。
「もう少しヒントが欲しいかも」
そんな独り言をこぼしながら、会場の中をきょろきょろと探索していく。
階段を上って二階へ向かい、ふらりとテラスに出たその時――ふと、視界の端に巨大な影が映った。
「あ!」
思わず声が漏れた。
広いテラスのすぐ近くで、夜空を切り裂くように伸びる白い塔。塔はまるでこの世界そのものを見下ろしているみたいに静かに光っている。
――思い出した。帝都の象徴、《マギア塔》。小説の表紙にも描かれていた、あの塔だ。
「小説《貧乏男爵令嬢の一途な恋》。やっぱり……ここは転生先の世界なんだ」
記憶の本を探り出した私は、ゆっくりとそのページを開いていく。
悪妻ファルファナは、ヒロインと旦那様の恋路の邪魔をしまくる悪役だ。そして物語の終盤、数々の悪事が露見した末に「処刑」される。
「悪妻かぁ」
テラスのガラスに映る自分の姿をそっと覗き込む。
ウェーブのかかった長い黒髪。紫の瞳は深い夜の底みたいに冷たくて。すっと通った鼻筋と相まって、どこか近寄りがたい雰囲気さえあった。
なるほど、悪妻っぽい。
「私が悪妻に転生だなんて……楽しそう!」
胸の奥が、どくんと跳ねる。
思考を巡らせているところで――。
「ファルファナ様」
ざっ、とドレスの裾が擦れる音がして、数人の令嬢達がテラスへ姿を現した。
「……こんばんわ。素敵な夜ですね」
にこっと笑って挨拶してみたけれど、返事はない。むしろ、全員そろって眉をひそめている。
「ファルファナ様、いい加減、スエイル様を解放してあげてください!」
「解放?」
「とぼけないでください! 貴女が無理やりスエイル様との婚姻をもぎ取ったって、もう社交界中の噂なんですから!」
お若いご令嬢方は、感情のまま声を張り上げてくる。
「侯爵家の権力を振りかざして無理やり結婚したくせに! スエイル様が……お可哀想ですわ!」
涙を滲ませながら訴える令嬢の声が、震えて響く。
ファルファナは侯爵家のご令嬢で、その立場を盾に我儘で傲慢で、好き放題に振る舞ってきた。
だから旦那様からも他の貴族からも、そして物語の読者からさえも、もれなく嫌われていた正真正銘の悪妻。
――そんな私が、《エルライン》公爵である旦那様と結婚しているのが面白くないんだろうけど。
「それは語弊があります」
私ははっきりと目を見て言い返した。
「確かに強引だったかもしれませんが、最終的に婚姻を選んだのはスエイル様ご自身です。家同士の益を考えて、きちんと納得してくださったはずですよ」
「なっ――」
「私はよく知りませんけど、愛のない政略結婚って貴族では普通なんですよね? なのに私だけ悪者扱いされるのは……ちょっと不思議です」
「は、はぁ!?」
令嬢達の顔がみるみる赤く染まっていく。
怒りのせいか肩が小刻みに震え、握りしめた指先まで強張っていた。
「な、何よ! そんな嫌な性格だから、皆から嫌われるのよ!」
「ちょっとでも好かれたいなら、少しはその性格を直しなさいませ!」
「え?」
放たれた言葉に、私はぽかんと目を丸めた。
「えっと……貴女達に嫌われていようが、私は何も気になりませんけど?」
素直に、正直に、思ったままを口にする。
「な、何よそれ……っ! 私達を馬鹿にしてるの!?」
「気にならないって、どういう意味よ!? 失礼にもほどがあるわ!」
怒りが一気に爆発し、令嬢達の声が重なって跳ね返ってくる。
どうしよう。怒らせるつもりなんてなかったのに、余計に火に油を注いだみたいになってしまった。
「悲しむべきだったんですか? 怒るべきだったんですか? それはごめんなさい。……何も思えなくて」
もっと言えば――今日会ったばかりの好きでもない相手にどう思われようが、本当にどうでもいい。私の心は、そこに一切の重さを感じない。
何も思えない。感じることができない。
令嬢は明らかな敵意を宿した目で、私を射抜いた。あ、やばいかも。
「嫌われ者の悪妻のくせに……! 何一つできない『無色の無能』のくせに、偉そうにしないでよ!」
ごぉ、と彼女の怒りに呼応するように、周囲の空気が震える。風が逆立ち、裾がふわりと持ち上がった。
「わぁ……これが魔法なんですね、初めて見ました! すごーい!」
って、呑気に感動が口から出たけど、そんな場合じゃない。
かまいたちのように鋭い風の刃が、一直線に私へと飛んでくる。
「わっ……!」
反射的に身をひねって避けた拍子に足がもつれ、私は石畳の床を転がりながら転倒した。
頬をかすめた風の刃が、遅れてひりりと痛む。
「うふふ。魔力ゼロのファルファナ様には、その無様に転げ回る姿こそお似合いですわ!」
「……喧嘩にしては、やりすぎじゃない?」
ぐっと力を込めて身体を起こす。切り裂かれた頬から流れた血を、指先でそっと拭った。
「黙りなさい! 前から……ずっと前から大嫌いだったのよ! 痛い目でも見ればいいんですわ!」
その瞳には激しい感情が燃えていて、止めても聞きそうにない。
広いテラスには私達しかいないし、助けを呼ぼうにも……下の大広間からは楽しげな音楽が聞こえてくるだけ。さてさて、どうしようかな。
「泣いてスエイル様と離婚するとお約束なさるなら、許して差し上げてもよろしくてよ?」
令嬢は勝ち誇ったように顎を上げ、余裕の笑みを浮かべていた。
「ありがたいお話だけど、遠慮しておくね」
――別に私が旦別に旦那様に執着しているわけじゃないけど、脅されたから従うのは、なんだか違う気がする。
「痛い目にあいたいの!?」
「いいえ」
私は小さく笑った。
「貴女達の好きにさせるのが嫌なの」
そう言って、迷いなくテラスの手すりへ足をかけた。
夜風がふわりと吹き上がって、気持ちいい。二階の高さから見下ろす庭園の灯りが、遠く小さく揺れていた。
「ちょっ、ちょっと何してるのよ!?」
「落ちたらどうするつもりなんですのっ!? ここ、二階なのよ!」
一転して慌てふためくご令嬢達。
「わぁ! 嫌われ者の私でも、一応は心配してくださるんですか? 嬉しいです。ありがとうございます!」
「だ、だって別に、そこまでは……っ」
「少し痛い目を見せれば、それで――」
声が弾んだ私に、令嬢達は目を泳がせながら口ごもった。
「私がここから落ちて死んじゃったら……貴女達は本物の加害者になっちゃうのかな? 悪妻でも一応はエルライン公爵夫人だから。罪状、どうなるんだろうね?」
ただの素朴な疑問を口にしただけなのに、令嬢達の顔色がすうっと青くなっていく。
誰かが、ひゅっと息を呑んだ音がした。
「降りなさいよ! 今すぐ!」
「はーい」
令嬢達が慌てて手を伸ばしてくる。だけど私は笑顔で返事をし――そのままふわりと後ろへ身を倒した。
「そっちじゃな――」
「わっ、落ちるってこんな感じなんだ――わわわわっ!」
支えを失い、空気を切り裂くように一直線に落ちていく。
地面すれすれのところで――ぽふん、と柔らかいものに包まれるような衝撃が走った。
「あ……ちゃんと咲いててくれてた。ほんと、助かったぁ」
淡い光を帯びた花々が視界いっぱいに広がる。
私は花の上に埋もれたまま、ふっと力が抜けるのを感じた。幾重にも重なった花弁が落下の衝撃を受け止めるように揺れ、甘い香りがふわりと漂う。
「守ってくれてありがとう、お花さん」
よいしょ、と花の上から降りて、ぱっぱっと服についた砂埃を払う。
体を動かしてみたけど、痛いところはどこにもない。うん、無傷だ。
「――ファルファナ」
低い声に顔を上げる。
「あ」
旦那様だ。腕を組み、こちらを見下ろしている。
落ちた場所が大広場から丸見えだったせいで、私が上から落ちてきたところをばっちり見られてしまったらしい。
「……君はいったい、何をしている?」
「二階から飛び降りるという、大変貴重な経験をさせていただきました!」
聞かれたので、正直に答える。
すると旦那様は眉間に手を当て、深いため息を吐いた。
「死ぬ気だったのか?」
「まさか。助かると分かってて飛び降りましたよ」
にこっと笑い、足元の花にそっと触れる。光を帯びた花弁が、触れたところからふわりと揺れた。
「このお花、すごいんです。仕組みは分からないんですけど、どんな衝撃でもぽふんって受け止めてくれるんですよ!」
「そんな知識を、いったいどこで……」
旦那様が怪訝そうに目を細める。
その視線に、私は記憶の本をそっと開くように、頭の中の物語をめくった。
「ここは、私が『彼女』を突き落とした場所なんです」
言った瞬間、旦那様の眉がぴくりと跳ねた。
「突き落とした、だと?」
あ、やば。
「夢の中でのお話です」
「君はどんな物騒な夢を見ているんだ!?」
――ですよね。私もそう思う。だって小説の中の私は、なかなかに酷い。嫌がらせをして陥れて、最後にはここからヒロインを突き落とすのだから。
本来なら私が突き落とすはずの場所で私が助かるなんて、なんだか不思議な感覚。
「俺は、大人しくしていろと言ったはずだが」
「不可抗力ですよ旦那様。私は虫が寄ってきたから、はらっただけです」
「……虫だと?」
短く呟いたあと、旦那様はふいに視線を上へ向けた。
つられて私も見上げると――二階のテラスの影が、こちらに気づいた瞬間、ばたばたと慌てて奥へ逃げていくのが見えた。まだいたんだ。てっきりもう逃げたものだと思っていた。あんなに慌てるくらいなら、もっと早く姿を消せばいいのに。
少しだけ呆れながら見送っていると、旦那様の視線が再び私へ戻る。
その目が、私の頬で止まった。
「その傷はどうした」
「虫に刺されました」
頬に手を添え、あっけらかんと答えてみせる。
本当のことを言ってもよかったけど……あの人達、根っからの悪い人ってわけじゃなさそうだし。今回は見逃してあげる。――今回だけはね。
「……」
旦那様は少し考えるように目を伏せると、そっと手を伸ばした。
指先が私の頬に触れ、温かさがじんわり広がっていく。そのまま痛みがすぅっと引いていった。もう痛くない。
「治してくださったんですか?」
「勘違いするな。君がその傷を理由に、余計な報復をしないようにしただけだ」
ひどい言い草。でも普段のファルファナを知っていたら、そう警戒したくなる気持ちも分からなくはない。
それよりも――。
「旦那様って、実はお優しいんですね!」
ぐいっと身を乗り出して、旦那様の顔を覗き込んだ。
大嫌いなはずの悪妻の傷をわざわざ癒してくれるなんて、そんなの優しい以外の何ものでもない。
「なっ……」
旦那様がわずかに目を見開く。
「そんな心優しい旦那様を、妻がいるのに不貞を働くような最低男にしたくありませんので、離婚いたしましょう!」
「喧嘩を売っているのか?」
今度は旦那様の目が、すっと細くなった。
心の声がそのまま口から出てしまっていたみたい。言葉を間違えたかな? でも旦那様は、小説でヒロインのことを好きになるんだもの。
「失礼いたしました」
私は素直に頭を下げた。
「大丈夫ですよ。ちゃんと不倫の一線は守っていましたから!」
「何が大丈夫なんだ!」
即座に返された声は、先ほどより少しだけ低い。
「離婚、いいですよね? だって旦那様は私がお嫌いでしょう?」
受け入れたとはいえ、この婚姻がファルファナの強引な願いから始まったことに変わりはない。
それに物語の中の私は、公爵夫人という立場を利用して好き放題に悪事を働く。離婚してしまえばヒロインの邪魔もしなくてすむし、悪事だって働けない。
つまり――処刑回避!
心の中でこっそり拳を握った。
「どういうつもりだ。いまさら興味のないふりなどして、俺の気を引けるとでも思っているのか?」
「なるほど! そんな手もあるんですね!」
「……は?」
ぱぁっと視界が明るくなるくらい、本気で感心してしまった。
旦那様を私に夢中にさせて、処刑回避、っと。そんな発想、これっぽっちも思いつかなかった。
「私を好きになっていただけますか? 旦那様」
「あり得ない」
「ですよねぇ」
旦那様の私に対する印象は最低だ。ここから上昇させるのは一苦労そう。
「……いいだろう、離婚には応じる」
「ありがとうございます」
私はぱっと笑顔を咲かせた。
「君の両親――《ミシュラート》侯爵夫妻には、こちらから正式に離婚の通達を送る。自分から言い出したんだ。撤回はするなよ」
「勿論です!」
胸を張って断言する。
だって私は自由に生きたいのだ。せっかく健康な身体に生まれたのだから、思うままに好きに生きていきたい。
きっぱりと言い切ると、大広間の方に視線を向けた。
静かなこちらとは違って、あちらでは未だに音楽が鳴り響き、楽しそうなパーティーが続いている。
「せっかくなので私達も踊りますか?」
ひょいっと手を差し出してみる。
離婚はするけれど、最後に夫婦らしいことをしてもいいかもしれない。そんな程度の軽い気持ちだったけど、旦那様は差し出された手を一瞥しただけだった。
「断る。笑いものになりたくないからな」
私の手を完全に無視して、大広間の方へと歩き出す。
「残念、振られちゃった」
宙に取り残されたままの自分の手を見つめる。
まぁ、振られたものは仕方がない。旦那様が私と踊りたくない気持ちはよく分かるし、無理やり付き合わせるつもりもない。
「私、ダンスなんて踊れないしね」
真顔で呟く。
誘ったあとで気づいたけれど、病院暮らしで普通の高校生だった前世の私にダンス経験なんてあるはずもない。もし本当に手を取られていたら、盛大に旦那様の足を踏み抜いていた気がする。
「ファルファナ」
旦那様が私を呼ぶ声。
視線を向けると、少し離れた場所でこちらを見ていた。赤い瞳は相変わらず冷たいけど、その視線が言いたいことは何となく分かる。
――これ以上、問題を起こすな。っと。
「はぁーい。すぐ行きますね」
私は素直に返事をすると、小走りで旦那様のもとへ向かった。
ここから始まるのが、私の新しい人生だ。




