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戦国昆虫戦記【変態飛翔】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第一章 崩落の安土

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第六話 明智の偽善救済

天正十年六月六日


本能寺の変から四日が過ぎた京、本圀寺。

かつて室町幕府第十五代将軍・足利義昭の居所でもあったこの名刹は、今や主君・信長を急襲し、あまつさえ撃ち漏らした明智光秀の本陣となっていた。天下人の首を取り逃がした謀反人の陣所に、勝利の昂揚感など微塵もない。


夏のねっとりとした湿気が立ち込める境内にひしめく兵たちの顔には、疲労と、得体の知れぬ不安が色濃く張り付いていた。主君に弓引きながら仕留め損なったという致命的な失態。その重圧が、明智の軍勢から音もなく士気を削ぎ落とし、逃れられぬ破滅の足音に怯える死臭にも似た静寂を形作っている。


「……浅井家嫡男、満福と申すか」


上座に座る明智光秀の声は、ひどく掠れ、乾いていた。

満福は薄暗い陣所の只中で、静かに顔を上げた。目の前の男は、数日の間に十歳は老け込んだように見えた。頬はこけ、眼窩は深くくぼみ、かつて織田家随一の教養人とうたわれた気品は、極度の緊張と孤立によって削り取られている。


(……酷い有様だな。大博打を打った重圧か、孤立による絶望か。気力が完全に枯渇している。天下を獲る覇気など微塵もない、ただの抜け殻だ)

脳内で響く時任の冷ややかな分析を、満福は静かに聞き流した。


「いかにも。お久しうございますな、明智殿」


満福は一歩も引かず、光秀の血走った眼光を正面から受け止めた。

その背後には、深く編み笠を被った小柄な老人が一人、音もなく控えている。


「あの日、京の四条の辻で見かけた折……大男の背に隠れていた童の、泥の奥から私を射抜く異様な光が気にかかっておったが。やはり、あの時の童が浅井の遺児であったか」

光秀の顔に、自嘲にも似た薄暗い笑みが浮かんだ。

「九年前に失踪し、小谷の亡霊が、甲賀にて力を持ち、神仏を騙って安土を土塊つちくれに変えて戻ってくるとはな。……恐ろしきガキよ。だが、そちらの老人は何者だ。その気配、どこかで見覚えがあるが……」


光秀の濁った視線が、満福の背後に控える老人に注がれる。

老人は、面倒くさそうにゆっくりと笠を脱ぎ、皺だらけの顔と、底意地の悪い光を宿した双眸を晒した。


「……ッ!?」

光秀が、弾かれたように床几から腰を浮かせた。周囲を固めていた明智の重臣たちが、一斉に殺気を放ち刀の柄に手をかける。

「貴様……まさか、弾正少弼だんじょうしょうひつか……!」


「カカカ、明智殿。お主も随分と無様な顔になったものよ。自ら張った蜘蛛の巣に絡まり、身動きが取れなくなった哀れな蛾のようだ。それとな、わしは今、灰庵と名乗っておる。一度は灰になったからのう。良い名だろ」


灰庵と名を変えたかつての天下の軍師、松永久秀は、周囲の殺気など意に介さず、主君である満福の横にどっかと座り込んだ。


「ば、馬鹿な……。信貴山城で爆死したはずの男が、なぜ生きている! 浅井のガキの軍師だと……? 本能寺の焔に炙り出され、地獄から亡霊どもが一斉に這い出してきたというのか!」


光秀の額から、滝のような冷や汗が流れ落ちた。

無理もない。甲賀にて羽化した浅井の嫡男と、とうの昔に滅びたはずの松永久秀。この二人が悪夢の如く並び立つ光景は、光秀が守ろうとした「室町の法」も、信長が築こうとした「理」も、もはやこの乱世には通用せぬことを無慈悲に突きつけていた。自らが本能寺で放った業火が、呼び寄せてはならぬ異形のものたちを呼び覚ましてしまったのではないか――。光秀の背筋に、生理的な悪寒が走る。


(満福、光秀の精神はすでに限界に近い)

不意に、満福の脳内で時任の冷徹な声が響いた。

(細川も筒井も味方につかず、奴は完全に孤立している。大義という求心力を失った群れは、どれほど巨大であろうと内側から自壊する。……今こそ、奴の心臓を鷲掴みにする時だ)


満福は冷たい息を飲み込み、光秀へ向かって鋭く言葉を放った。


「明智殿。信長は岐阜へ退きました。安土は崩落し、信長の威信は地に落ちた。されど、それは我らが稼いだわずかな時に過ぎぬ。西からは羽柴の三万余が、狂った猪の如き速さで戻ってきている」


満福は、中国大返しという絶対的な脅威を突きつけた。

「対する貴殿の兵は、主君に弓を引いた『逆賊』の汚名に怯え、深い動揺の中にいる。

数は掻き集めても一万三千。対する羽柴の軍勢は、主君の仇を討つという『弔い合戦』の熱狂に浮かされている。

……このまま山崎でぶつかれば、貴殿の軍は恐怖と数の暴力の前に粉々に圧し潰され、

『末代まで主君を害そうとして仕留め損ねた、無能なる大逆人』

として、汚名のうちに潰えることになろう」


満福の容赦ない宣告に、光秀はギリッと奥歯を噛み鳴らした。

「……無礼な。我らには山崎という、大軍を阻む隘路の利がある。……だが、……ならばどうせよと言うのだ。浅井の寡兵が加わったとて、羽柴の四万に迫る怒濤を押し返せるとでも言うのか!」


光秀の言葉には、山崎の戦いにおける明智勢こそが主力であるという矜持と、浅井という得体の知れない勢力への侮りが混じっていた。


「主力はあくまで明智殿の軍勢だ。我ら甲賀・浅井の兵四千、および京極殿の号令で集まる五千の国衆は、貴殿の背後と側面を埋める加勢に過ぎぬ」

満福は淡々と事実を認めた上で、光秀の目を真っ直ぐに見据えた。

「だが、ただの加勢ではない。我らは、貴殿の兵たちが今、最も飢え、最も求めているものを差し出しに来たのだ」


「求めているものだと?」


「戦うための『大義』だ」


満福は懐から、一反の薄い布を取り出した。

それは、甲賀の里にて冴衣から託された、一筋の「うすもの」であった。満福はそれを、光秀の目の前の畳の上に静かに広げる。

布の端には、京の御用職人のみが知る特別な隠し縫いと、誇り高き足利家の家紋「丸に二つ引」が刻み込まれていた。


「これは……足利家の……それも、直系の……」

光秀が絶句し、震える手をその布へと伸ばした。かつて足利義昭を奉じて京へ上った光秀にとって、それは己の原点とも言える絶対的な権威の象徴であった。


「この布の持ち主は、第十三代将軍・足利義輝公の忘れ形見だ」

満福の声が、重く、本圀寺の陣所に響き渡った。

「永禄の変の凶刃から逃れ、甲賀の里の闇の中で密かに匿われていた足利の姫君。彼女は今、わしら浅井の保護下にある」


(姫だと? 保護してるだと? 使い倒しの労働力として泥まみれでこき使っておいて、お前、よくもまあそんな白々しい台詞が吐けるな)


(うるさい。ここが正念場だろ。使えるものは何だって使う主義だ)


(……あぁ、すまん。お前の言う通りだ。ここは何が何でも、明智に踏ん張ってもらわないとな)

満福と時任が脳内でそんな非道なやり取りをしているとは露知らず。


「……義輝公の……御息女……。生き、ておられたのか……おお……」

光秀の目から、堰を切ったように大粒の涙が零れ落ちた。

かつて仕え、非業の死を遂げた剣豪将軍。室町幕府を再興するという理想を信長に打ち砕かれ、ついには主君殺しの修羅道へと身を落とした光秀にとって、その血脈の生存は、天から差し伸べられた一本の蜘蛛の糸であった。


灰庵が、その皺枯れた声を被せる。

「明智殿よ。信長に刃を向けたのは、単なる下劣な野心か? 違うはずだ。神を騙る魔王の暴挙を止め、古き良き秩序を取り戻すためではなかったか。……ならば、今こそ義輝公の血脈を奉じ、羽柴を迎え撃て。お主は逆賊ではない。将軍家を守護し、天下の平定を成す『正義の剣』となるのだ」


(満福、凄いぞ。これこそ、俺の予想を超える変化だ。物理的な兵力ではなく、名分という名の劇薬を光秀の脳髄に叩き込み、羽柴という怪物にぶつける死兵へと作り変えるのだな)


(……あぁ、思ってた以上に効果があったようだ)


光秀は畳に両手をつき、嗚咽を漏らしながら広げられた紗に額を擦り付け、平伏した。

「逆賊」という呪縛から解き放たれ、将軍家の血筋を奉じるという最も高潔な目的を与えられた男の背中から、先程までの死臭は完全に消え去っていた。

ゆっくりと顔を上げた光秀の目には、猛烈な執念と、狂気じみた将としての光が宿っていた。


「……よかろう、満福殿。そして、灰庵殿」

光秀は、血の滲むような声で宣言した。

「山崎の地、明智の主軍が盾となり、貴殿の策に従おう。……この戦、義輝公の御息女を奉じる『義軍』として、羽柴秀吉を討ち滅ぼす!」


九年前の怨念と、昭和の亡霊の知識。そして、死に体の逆賊と、滅びたはずの将軍家の血脈。

幾重にも絡み合う歴史の異物が、山崎の地で羽柴秀吉という怪物を粉砕すべく、一つに結ばれた瞬間であった。


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