第五話 安土城崩落
天正十年(一五八二年)六月五日 近江国・安土
夏の焼け付くような陽光が石垣を焦がしている。
本能寺の変を歴史の歪みにより回避した織田信長は、権力の象徴である安土城に滞在している。
信長が急ぎ安土へ戻った理由は一つ。甲賀に潜伏する浅井が挙兵するという六角親子からの情報を受け、その火種を即座に踏み潰すためであった。
しかし道中、明智が本能寺を急襲したという凶報を受けた信長は、己がわずかな刻の差で死地を逃れたという事実に、首筋に冷たい汗を滲ませた。だが、その本能的な悪寒は、即座に「己の存在こそが絶対不可侵である」という狂気じみた確信へとすり替わった。
神を自称する己の背を狙い、あまつさえ仕損じた光秀への底知れぬ怒り、そして肥大化した絶対者としての傲慢さは、安土城の天主に腰を据えた今もなお、周囲の者たちに息が詰まるような異様な緊張を強いていた。
「……光秀が、瀬田を焼き、山崎を固めたか」
天主の一室。信長は、安土の留守居役を任せていた蒲生左兵衛大夫(賢秀)がもたらした報告を、苦虫を噛み潰したような顔で受け止めた。
「はっ、明智軍は京の周辺を完全に掌握。さらには……殿が危惧された通り、浅井は甲賀にて兵を挙げた様子。満福なる者が、南近江を脅かそうとしております」
「やはり、この機に乗じて這い出してきおったか。……忌々しい。死に損ないの亡霊め」
信長の目に、冷徹な焦燥が走る。
「賢秀。猿はどうした。権六は。一益は」
「備中の羽柴殿、北陸の柴田殿、信州の滝川殿、いずれにも明智謀反の報は届いているはず。なれど、軍を返すには時がかかり申す。……殿、今はここ安土の守りを固め、各方面からの援軍を待つのが最上かと」
信長は、窓の外に広がる琵琶湖を睨みつけた。
「……安土は不落の城だ。神として君臨するこのわしを、虫けらが落とせるはずがない」
その言葉が、信長の口から漏れた瞬間であった。
ズゥゥゥン……。
大気を震わせる不気味な重低音が、城の深淵から響いた。
爆発音ではない。それは、巨大な巨人が呻き声を上げたかのような、地響きに近い音であった。
「な、何事だ!」
信長が床几から立ち上がろうとした瞬間、足元の床板が異常な角度で傾いた。
「殿、危ない!」
賢秀が咄嗟に信長の腕を掴み、部屋から引きずり出す。
直後、二人が今しがた立っていた天主の最上階を支える太い柱が、乾いた音を立てて爆ぜた。
否、爆ぜたのではない。それは、内側から「崩壊」したのだ。
三年前、佐助の手によって仕込まれたイエシロアリの群れが、特殊なホルモン剤によって異常繁殖を遂げ、天主の全重量を支える巨大なヒノキの芯材を、徹底的に食い荒らしていた。
外見は黄金に輝く豪華絢爛な柱。だがその実態は、数百万匹の白蟻によって、蟻の通い路が幾重にも穿たれ、芯まで虚ろとなった、ただの木の皮に過ぎなかったのである。
佐助の配下が地下に仕掛けた、わずかばかりの爆薬による衝撃。それが、均衡を保っていた巨大な構造物の「死」を決定づける最後の一押しとなった。
メリメリ……バリバリ……!
断末魔のような破壊音が、五層七重の巨城全体を包み込む。
信長と賢秀が螺旋階段を駆け下りる背後で、天主の骨組みが自重に耐えかねて歪んでいく。黄金の壁が剥がれ落ち、青い瓦が濁流のように地上へと降り注ぐ。
「これは……天罰か……。浅井の、怨念だというのか!」
背後で崩落していく「神の家」を振り返り、信長は絶望に満ちた声を上げた。
彼らが城門を駆け抜けると同時に、安土城の天主は、まるで泥細工が崩れるかのように、ゆっくりと、そして確実に崩落した。
琵琶湖の畔にそびえ立った不滅の象徴が、ただの瓦礫の山へと変貌していくその光景は、戦国の世が新たな、そして凄惨な局面に入ったことを告げる弔鐘のようであった。
「殿、御急ぎを! 安土が崩れた今、この地はもはや安全ではございませぬ! 甲賀の浅井、そして京の明智が追撃に現れれば、今の寡兵ではひとたまりもございませぬぞ!」
賢秀の必死の呼びかけに、信長は憤怒と屈辱に塗れた顔で頷いた。
「……岐阜へ。岐阜へ退く。光秀……長政のガキ……おのれ、おのれ……!」
天下人としての矜持を粉々に打ち砕かれた魔王は、わずかな手勢に守られ、命からがら岐阜の地を目指して逃走を開始した。
轟音と共に崩れ去る天主。その瓦礫から立ち昇ったのは、土煙だけではなかった。黄金の柱が「砂」のように脆く砕け散り、不気味なほど真っ白な粉塵が、まるで死者の執念が形をなしたかのように安土の町を白く染めたのである。
崩落の際、僅かに見えた「木理を食い荒らす無数の小さな影」を見た者は、腰を抜かして叫んだ。
「あれは虫ではない、浅井の怨念が形を変えた『餓鬼』だ! 織田の業を食らい尽くすために、地底から湧いて出たのだ!」
安土城崩落の報は、瞬く間に近江一円を駆け抜けた。
人々は口々に囁いた。「信長は神を気取り、仏罰を被ったのだ」「九年前の浅井の怨念が、城を崩壊させた」と。
この心理的な動揺が、次の一手に繋がる。
安土に近い近江の街道沿い。
京極の叔母上と叔父上、高吉の名を冠した高札が立てられ、各地の旧浅井家臣や、織田の強権的な支配に不満を抱いていた在地勢力が、続々と集まり始めていた。
「聞け、近江の武士どもよ!」
京極の叔母上は、まばゆいばかりの直垂を纏い、集まった群衆を見下ろして凛とした声を響かせた。
「神を称した信長の城は、浅井の義の前に崩れ去った。今こそ、近江を、我らの手に取り戻す時である! 浅井の嫡子、満福様の下へ集え!」
その扇の一振りに応じるように、地を揺るがす勝どきが上がった。安土の瓦礫を背に、新たな軍勢が、うねりを上げて膨れ上がっていく。
その喧騒から離れた甲賀の隠れ里。
満福は、旅装を整えた灰庵と共に、出立の直前に居た。
(……安土が崩壊したか。三年前に基礎へ定着させたイエシロアリの働きは、どうやら俺の計算以上だったようだな)
脳内で、時任の淡々とした声が響く。
(……それにしても、惜しいことをした。歴史好きの端くれとして、崩落する前の絢爛な安土城を、一度でいいからこの目で拝んでおきたかったがな)
時任の場違いな未練を冷徹に聞き流し、満福は目の前の盤面へと意識を戻した。
(ああ。だが、これはお前の言う最適解の一つの条件を満たしたに過ぎん。残る条件を満たすためには、もう一人の役者を、俺たちの盤面に引き込まねばならん)
満福は、西の空を見据えた。そこには、本能寺で主君を撃ち漏らし、孤立を深めているであろう男の居城がある。
「行くぞ、灰庵。明智光秀に、挨拶をしてやらねばならん」
「カカカ。謀反人の元へ、甲賀に隠れていた浅井の若君が乗り込むか。これほど痛快な茶番は、長い乱世でもそうはお目にかかれぬな」
二人の影は、夕闇が迫る山道を、迷うことなく京の方角へと消えていった。




