第四話 届く凶報
天正十年六月三日深夜、備中国
高松城を包囲する人工の湖は、月明かりを吸い込み、底知れぬ漆黒の闇を湛えて揺れていた。
羽柴秀吉の陣屋を包むのは、湿った夜風と、絶え間なく響く蛙の鳴き声。毛利軍への水攻めは最終局面を迎え、城将・清水宗治の切腹を条件とした和睦交渉が、まさに大詰めを迎えようとしていた。
だが、その静寂は、一人の泥まみれの男が発した叫びによって無残に引き裂かれた。
「申し上げます! 毛利陣営へ向かおうとしていた密使を捕縛! 密書を所持しております!」
報告を受けた秀吉は、寝所から跳ね起き、灯明の下でその書状を広げた。差出人の名を見た瞬間、秀吉の頬がぴくりと震える。
「……明智日向守?」
次の瞬間、文面に目を落とした秀吉は、石のように硬直した。そこには明智光秀が本能寺を急襲すること、そして毛利に対し、共に羽柴軍を挟撃すべしという衝撃の内容が記されていた。
「……明智殿が、謀反だと……?」
秀吉の手から、震える書状が滑り落ちた。
「上様は……? 上様はどうなられた! 寺から逃れられたのか、それとも……!」
「わかりませぬ! 捕縛した密使も情報は持ち合わせていない様子であります!」
安否不明。その四文字が、秀吉の脳内を嵐のようにかき回す。主君への忠義という仮面が剥がれ落ち、剥き出しの恐怖と焦燥が陣屋を支配しようとしたその時、音もなく一人の男が進み出た。軍師・黒田官兵衛である。
官兵衛は周囲の近習を冷徹な目配せで下がらせると、秀吉の傍らに膝をつき、地獄の底から響くような声で囁いた。
「殿。あの周到なる明智殿が兵を挙げ、本能寺を包囲したのであれば、万に一つも抜け道はございませぬ。……上様はすでに討たれたものと断じ、動くべきです」
「な……何を抜かす! 上様は神にも等しきお方。左様なことが……!」
「殿。……ご運が開けましたな」
秀吉は鼻水と涙にまみれた顔を上げ、官兵衛を睨みつけた。だが、軍師の瞳にあるのは、主君を失った悲しみではなく、獲物を狙う猛禽の如き冷徹な光であった。
(……光秀め。あの男が仕損じるはずがない。上様が生きているという確証がない以上、死んだものとして動かねば、わしが先に喰われる。……いや、上様が御隠れになったのであれば、天下の主座は空となる)
秀吉は乱暴に顔を拭った。主君を失った悲哀は瞬時に消え失せ、その双眸には光秀を討ち果たして己が天下を掴まんとする、底知れぬ野心の炎が宿っていた。
「官兵衛。この凶報、毛利には何としても伏せよ。宗治の切腹をもって、即座に和睦を結ぶ。その後……全軍を反転させ、京へ戻る。天下の覇権を握る明智光秀の首は、このわしが誰よりも早く取るのだ」
ここに、後に「中国大返し」と呼ばれる狂気的な強行軍の幕が上がった。
* * *
六月六日 越中国・魚津城
北陸の最前線、魚津城は、勝利の熱狂と血の匂いに包まれていた。
三日前の六月三日、長きにわたる死闘の末に城は陥落。上杉の猛将たちが自刃したことで、柴田勝家が率いる北陸方面軍は、ついに越中平定という悲願に王手をかけた。陣中では兵たちに酒が振る舞われ、誰もが信長による天下統一の完成を疑わなかった。
だが、その歓喜を、一人の伝令が打ち砕く。
「申し上げます! 上方より急使!」
勝家、前田利家、佐々成政。さらに勝家の甥であり「鬼玄蕃」と恐れられる猛将・佐久間盛政が居並ぶ陣屋に、蒼白な顔の使者が転がり込んだ。
「六月二日未明、明智日向守が謀反! 京の本能寺を襲撃いたしました!」
「……何だと?」
勝家が床几から立ち上がり、使者の胸倉を掴み上げた。その巨躯から発せられる威圧感に、周囲の空気までが凍りつく。
「光秀が上様に弓を引いたというのか! 上様はいかがなされた!」
「はっ! ……上様は寺を脱出されており、瀬田を渡って安土城へと逃れられました! 安土からの報せによれば、上様は安土の天主に入り、御無事にございます!」
「おお……上様は生きておられるか!」
勝家は使者を突き飛ばし、豪快に笑った。安堵の波が将たちの間に駆け抜ける。備中の秀吉とは異なり、北陸方面軍には、地理的に信長が安土に辿り着いたという確報が届いたのだ。
「叔父上! 笑っている場合ではございませぬ!」
怒号を上げたのは、佐久間盛政であった。盛政は血走った目で勝家に詰め寄る。
「上様が御無事なればこそ、今すぐ全軍を返し、安土へ駆けつけるべきです! 光秀の首を、この盛政がねじ切ってくれましょうぞ!」
「盛政、落ち着け」
勝家は甥を制するように手を挙げた。その目は、安堵の裏で即座に冷徹な戦術計算を開始していた。
「お待ちくだされ、勝家殿!」
前田利家が鋭い声を上げた。
「背後を御覧じてくだされ。我らが今ここを捨てれば、越後の上杉景勝が即座に牙を剥きまする。背中を喰われれば、安土に辿り着く前に軍は霧散しますぞ」
勝家は歯噛みした。
信長は生きている。だが、安土で孤立している事実は変わらない。北陸という遠隔地で強敵と対峙している自分たちは、地の利によって主君を救いに行けぬ鎖に繋がれていた。
勝家が沈黙を破った。
「……魚津は捨て、焼き払え。上杉に食糧一つ渡すな」
勝家は地図を睨みつけ、全軍を三分割する非情な命を下した。
「成政。お主は一万二千を率いて富山城に入り、神通川で上杉を食い止めよ。一歩も西へ通すな。殿としての死地、頼んだぞ」
「御意。この成政、神通川を赤く染めてでも守り抜きましょう」
「利家、お主は八千を連れ、金沢へ急げ。倶利伽羅峠を封鎖し、不穏な動きを見せる加賀の一向一揆を力でねじ伏せるのだ。背後の『蓋』は任せたぞ」
「承知いたしました。一匹の蟻も峠を越えさせはしませぬ」
勝家は二人の肩を強く叩き、傍らに立つ盛政に視線を向けた。
「盛政! お主はわしと共に二万の精鋭を率いて南下するぞ! 上様の居られる安土まで、泥を食らってでも走り抜く。道を阻む者は、お主の槍で全て薙ぎ払え!」
「ははっ! それこそが望むところよ!」
自ら放った焦土の炎が、魚津から立ち昇り、夕闇の北陸を赤く染めていく。
柴田軍は、上杉という飢えた猛獣を背後に感じながら、一丸となって反転を開始した。
だが、彼らはまだ知らない。この前日に安土城が崩落したという事実は、いまだ両者の元へは届いていない。
西と北の地で、二人の猛将が、それぞれの思惑を胸に軍を反転させようとしていた。
一方の脳裏には「上様の死」という前提の野心が、もう一方の脳裏には「上様の生存」という前提の忠義が渦巻いている。
そして、彼らはまだ知らない。己らが討つべき最大の敵と定めた明智光秀が、満福によって、全く別の「大義」を掲げる武士へと作り変えられようとしていることを。
戦国の世は、誰一人として正解を知らぬまま、山崎という一点へ向かって加速を始めた。




