第三話 生存への細い道
(まずは、最悪の道筋から説明する)
薄暗い館の一室。満福の脳内という密室で、時任の冷徹な声が響いた。
それは、歴史という巨大な奔流が向きを変え、彼らを押し潰そうとする足音そのものであった。
(史実では、備中で毛利と対峙している羽柴秀吉が、本能寺の変報を知り、即座に毛利と和睦して中国地方から引き返してくる。そして、謀反人となった明智光秀を討ち果たす。明智という、この盤面を根底から覆す異物を失えば、織田は急速に勢いを取り戻すだろう。そうなれば、羽柴の軍勢や北陸の柴田勝家の軍勢までもが、信長の命により我々甲賀へと牙を剥く。甲賀の滅亡、ひいては浅井再興の道は完全に断たれる)
満福は目を閉じ、その絶望的な未来の光景を噛み砕いた。息を吸うたびに、初夏の湿気と土の匂いが肺を重く満たす。
(では、どうする。予定通り安土へ軍を進めるか)
(いや、それは最悪の愚策だ。信長本人が安土へ帰還する以上、手薄という前提は崩れた。今、我々の寡兵で攻め込めば、返り討ちに遭うだろう。安土への武力侵攻は取りやめ、甲賀に留まる)
(ならば、安土は見過ごすのか)
(そうではない。最適解は、二つの条件を満たすことだ。一つは、安土城を落とし、織田の象徴を物理的に破壊し、南近江を手中に収め、東西の連絡網を分断する。武力は使わず、三年前から仕込んでおいた『イエシロアリ』による崩壊だが、外部から干渉し早急に実現させる。)
(なるほど、軍を使わず、安土城を崩壊させるのだな)
(そうだ。もう一つは、十一日後に起こる羽柴と明智の激突……史実における『山崎の戦い』で、明智を救い、羽柴の軍勢を食い止めることだ。安土へ向かう予定だった軍は甲賀にて英気を養っておこう。山崎の戦いに勝利し、明智と浅井が協調して、織田に対抗する巨大な防波堤とならねばならない)
(十一日後だと? 羽柴は遠く備中にいるのだろう? 数万の大軍を率いて、それほど早く戻ってくるというのか!)
(ああ。史実において『中国大返し』と呼ばれる、日本史で最も有名な強行軍だ。羽柴秀吉という男の異常な兵站能力と執念の結実と言える。……時間との勝負になるぞ)
(……分かった。すぐに軍議を開き、動くとしよう)
満福は視界の端に控える佐助へ視線を向けた。
「佐助、すぐに軍議を開く。家臣全員、……それと、京極の叔母上と叔父上も呼べ」
「御意」
満福の胸中に、重い焦燥感が渦巻いた。だが、立ち止まることは許されない。歴史の修正力という巨大な波が、すぐそこまで迫っているのだ。
ほどなくして、甲賀の奥座敷に、肌を刺すような重苦しい空気が立ち込めた。
上座に満福が座り、その横には名門・京極家の当主である京極高吉と、その妻であり浅井長政の姉・京極の叔母上が、扇で口元を隠しつつも圧倒的な威圧感を放って同席している。
下座には、歴戦の猛将である藤堂高虎、遠藤喜三郎、磯野員昌。望月吉棟、三雲成持、山中長俊、美濃部茂濃。そして、甲賀の闇を統べる鵜飼冴衣、三雲佐助、六助。さらには、軍師たる灰庵、実務を担う道実、兵站の鬼・石田佐吉が顔を揃えていた。皆、ただならぬ気配を察し、沈黙を守っている。
「皆、よく集まってくれた。単刀直入に言う。京の都で異変が起きた。明智光秀が謀反を起こし、主君である織田信長の滞在する本能寺を急襲したのだ」
家臣たちの間にどよめきが走った。織田の絶対的な支配体制が揺らいだという報せに、皆の顔に驚愕と期待が入り混じる。だが、満福は冷酷にその熱を断ち切った。
「しかし、織田信長は死んでおらん。奴は生き延びたのだ」
満福の放った言葉は、鋭い氷の刃となって座敷を切り裂いた。
喜三郎が大きく息を呑み、高虎の目が猛禽のように鋭く細められる。道実の顔色から血の気が失せた。
「だが、我々の目的は変わらぬ。信長が生きているならば、奴を討ち、浅井を再興するのみ。そのための第一の条件は、安土城を落とし、南近江を制する。第二の条件だが、西から戻る羽柴秀吉を止めることだ。我らは、羽柴を迎え討つ明智を救わねばならん」
「……カカカ。相変わらず、無茶苦茶なことを抜かす殿よ。だが、極上の茶番だ」
張り詰めた沈黙を破ったのは、灰庵の底意地の悪い笑い声だった。
「灰庵。羽柴と明智・我らが、山崎の地で激突した場合、兵数と戦況を説明しろ」
満福が促すと、灰庵は薄笑いを浮かべたまま、手元の書状を畳の上に放り投げ、残酷な現実を口にし始めた。
「毛利と和睦して引き返してくる羽柴の軍勢が約三万。これに摂津の織田信孝軍・約一万四千などが加われば、羽柴側は四万を超える大軍となる。対する明智は、丹波亀山の兵などを掻き集めても一万三千が良いところだ。そして……我ら甲賀・浅井の兵は、かき集めてもせいぜい四千。明智と合わせても一万七千に届かぬだろう。明智と縁の深い細川や筒井は、明智の要請を受けても、形勢を伺い、まず加勢には動かん。四万対一万七千……山崎の狭い地形を考慮しても、三万は相手にせねばならん。圧倒的に羽柴が有利だ」
「つまり、我らはその圧倒的に不利な戦況に飛び込み、三万の大軍を相手にせねばならんというわけか。正気の沙汰ではないな」
高虎が冷たく状況を整理した。その声には微かな絶望と、狂気じみた軍略への戦慄が混じっていた。
「その通りだ。だが、我らにも盤面をひっくり返す手立てはある。……佐助」
呼ばれた佐助が、音もなく平伏した。
「はっ、三年前、安土城に仕込んだ『イエシロアリ』の群れですが、現在、天主を支える大黒柱から土台に至るまで、内部の木材は凄まじい密度で食い荒らされ、完全に虚ろとなっております。守備兵に紛れ込ませている我が配下に命じれば、少量の爆弾による衝撃のみで、あの巨城は自重に耐えきれず完全に崩壊します」
佐助の淡々とした報告に、磯野や喜三郎が戦慄の表情を浮かべた。
満福は家臣たちを見回し、力強く告げた。
「安土城を落とすにあたり、その見せ方が重要だ。単なる工作による破壊ではなく、『織田は神仏に呪われている』『浅井の怨念が奇跡を起こし、天罰を下した』と、近江中に畏れを浸透させたい。信長の権威の象徴である安土が自ら崩壊したという凶報は、織田軍の士気を削ぎ、統率に綻びを生む。加えて、我らに味方する大義となる」
満福はそう言うと、上座の横に座る二人に深く頭を下げた。
「叔父上、叔母上。安土城崩壊が成せば、近江の動揺を突き、京極家の御威光をもって近江一円に号令をかけていただきたい。浅井再興を望む旧臣たちを募り、我々の兵力を底上げする必要があるのです」
満福の真っ直ぐな要請に対し、京極の叔母上は扇を閉じ、艶然と、しかし底知れぬ凄みを帯びて微笑んだ。
「あら、私と高吉様の名前で近江の国衆に号令をかけろというのね? まんぷくがそう言うなら私たちが直々に檄文を飛ばしてよろしくてよ。ええ、ただ名前を貸すだけではなく私たちできっちり使番を走らせてあげるわ。高吉様も、すぐに書状の支度をなさいますわよね?」
「は、はい……! すぐに近江一円の旧臣たちへ使番を走らせよう、妻の言う通りに……」
名門の当主である高吉が滝のような冷や汗を拭いながら必死に同意し、直ちに筆を執る様を横目に、満福は脳内の時任に演算を求めた。
(時任、この号令による募兵の予想兵数は?)
(安土崩壊の心理的効果と京極の権威、そして信長という重石が消えた空白地帯であることを計算すれば……最大で五千から七千の兵が一時的に集まる。だが、彼らが山崎に到着するまでには、どうしても数日の遅れが生じる)
(ならば、その加勢が来るまで、山崎で羽柴の猛攻を耐えねばならんということか)
満福は、一歩間違えれば全滅という絶望的な盤面を前に、静かに息を吐いた。極限の緊張感をその精神力でねじ伏せ、満福は真っ直ぐな眼差しで家臣たちに命を下した。
「望月、三雲、山中、美濃部」
名を呼ばれた四人が、揃って平伏した。
「お前たちには甲賀を守れ。我らが山崎へ向かう間、何があってもこの甲賀の地を守り抜け」
「はっ、承知仕りました」
満福は頷き、さらに歴戦の者たちへ視線を移した。
「勝負は、山崎における『天王山』の奪取と防衛だ。ここを取られたら、我々に勝ち目はない。……冴衣、佐助、六助」
「なんだい、満福」
「御意」
「はい」
「冴衣は鉄砲部隊を率いて天王山を押さえ、要塞化を進めよ。六助も天王山にて吸血虫や悪臭を放つ虫による『泥の筒』を用いた防衛準備を行え。佐助は、オオスズメバチの巣を山崎の隘路に設置し、『狂い汁』を用いて羽柴軍の陣形を内部から攪乱し、弱体化させる準備だ。お前たちは、決して正面からは当たるな、森と同化して削り殺すのだ」
「それと、すまんが冴衣、「紗」置いて行け。」
「……何故だ?……まあ、良いが。一応、大事にしている物だから変な事に使うなよ」
「安心しろ。変な事には使わんよ」
「そして……磯野、高虎、喜三郎!」
名前を呼ばれた三人の武将が、猛然と居住まいを正し、畳に額を擦り付けんばかりに平伏した。
「我ら本隊は、明智軍に加勢し、羽柴の主力と正面から激突する。京極の叔母上が集めてくれる増援が到着するまで、何としてでも羽柴勢を止めるのだ。磯野、お主の比類なき突撃力で羽柴の出鼻を完全に挫け。高虎は戦況の推移を冷徹に見極め、必殺の矛となれ。
喜三郎、お前は俺の盾となれ。それとな、兵たちの持つ刃には例の毒を塗らせろよ」
「承知仕った!! この磯野、満福様のために最後の泥をすすり、骨となろうとも羽柴勢を蹴散らかしましょうぞ!」
白髪の老将が、武者震いと共に感極まった咆哮を上げる。喜三郎も太い腕の拳を固く握りしめ、高虎は一切の感情を交えずに深く頷いた。
その光景の隅で、道実が青白い顔で胃を押さえながら呻くように呟いた。
「また……また常軌を逸した数の火薬と兵糧の手配ですか……。わかりました、私が何とかします……這いつくばってでも……」
その横で、石田佐吉が手元の算盤を弾きながら、冷徹な声で言い放った。
「京極様の名で集まる五千から七千の兵糧、そして山崎までの輜重の確保。道実殿が這いつくばるなら、私はその背中を踏み台にしてでも物資を前線へ運びます。甲賀の備蓄を底まで浚い、足りぬ分は金に糸目をつけず近江の商人から買い叩く。銭は惜しみません、勝てば全て織田から奪い返せますから」
十一日という、極限の時間。
信長の権力と野望の象徴である安土天主の内部には、すでに崩壊へと導く「楔」が静かに打ち込まれている。
そして、歴史の趨勢を決定づける山崎の地を目指し、浅井と明智、そして未来を知る亡霊の執念が、四万の羽柴軍を迎え撃つべく動き始めようとしていた。
安土城崩壊という前代未聞の凶兆を演出し、山崎という隘路で大軍を迎え撃つ。血の匂いを孕んだ風が、二つの決戦の地を静かに吹き抜けていった。




