第二話 時任の決断
(織田信長が、生き延びた……)
満福の脳内という暗い密室で、俺はひたすらに推論を繰り返していた。
史実が、今、根底から覆ったのだ。本能寺の変は起きた。だが、標的である信長は死ななかった。この変異がもたらす結果は何か。生物学の観点から言えば、局所的な環境(本能寺)で発生した天敵(明智)による捕食圧を逃れた頂点捕食者は、自己の防衛本能を極限まで肥大化させ、徹底的な環境の再構築に乗り出す。
信長は必ず明智光秀を討滅する。自らに刃を向けた者を決して生かしてはおかない。そして、その矛先は甲賀といった独立勢力へと確実に向かうだろう。徹底的な掃討。
その後、天下統一を果たし、国内の不安要素を物理的に根絶やしにした後、彼が向かう先はどこか。
おそらく、大陸だ。
史実において豊臣秀吉が歩んだ無謀な外征という名の暴挙を、信長がより冷徹に実行する可能性が高い。
だが、大陸への進出は、この国が決して踏み入ってはならない鬼門だ。己の身の丈に合わぬ戦線の拡大がどのような泥沼を招き、国を焼き尽くす結果となるか。俺はあの昭和の地獄で骨の髄まで思い知らされている。
外へ向かう巨大な軍事行動は、国内の生産力と人的資源を限界まで搾取する。農村は疲弊し、餓死者が溢れ、強権的な統治の反動で再び混沌の時代へと逆行する。
そして何より俺が危惧するのは、何百年後かに再び「あの悲劇」を繰り返す土壌になるのではないかという事だ。
個人の命を国家や主君のための消費財として扱う、あの血塗られた歴史の連鎖。二百年に及ぶ鎖国、その遅れを焦燥の中で取り戻そうとした明治の富国強兵策、そして列強に遅れを取るまいと帝国主義に走った昭和の経緯。その歪な近代化の果てが、帝都を焼き尽くしたあの無意味な惨状なのだ。
歴史の分岐点が、あの非科学的で凄惨な昭和へと再び収束していくのなら、俺がこの狂った時代に意識を繋ぎ止めている意味などない。
(……いや、そもそも俺は、この満福を見捨てられるのか?)
答えは否だ。寄生蜂が宿主を見殺しにしないように、俺とこの青年はすでに一つの生存共同体となっている。それに、あの昭和の無能な指導者たちとは違い、この青年には、肝の座った正しい決断が出来る一方で、家族・仲間への深い愛情も持ち合わせている。
(時任。……おい、時任!)
不意に、泥と血の匂いが充満する現実世界から、満福の焦燥に満ちた声が脳内に響いた。
(すまない。少し考え事をしていた)
(どうすればいい! 本能寺の変は起きたが、信長は死んでいないぞ! これでは安土を取る筋書きが根底から崩れる!)
余りにも動揺した様子の満福を見て、佐助が困惑した表情を浮かべていた。
(……満福、一つ尋ねたい)
(なんだ、こんな時に!)
(……お前、……天下を取る気があるか?)
満福の思考が、一瞬完全に停止した。何の脈略もない突拍子で場違いな問い。
(……は? 何を言っている? 狂ったのか、時任。天下だと? こんな状況で、現実離れした夢物語を語るな!)
当然の反応だ。しかし、これは夢物語ではない。純粋な生存戦略の帰結だ。
(そうだな。……でも、俺のいた時代の話を聞いてくれないか。四百年近くも未来の話だ)
時任は、満福に、昭和の時任が焼け死んだあの帝都の光景を、話すのだった。
夜空を覆う米軍の大型爆撃機、ゼリー状の油がばら撒かれ燃え盛る火災旋風、気道を焼かれる苦痛、そして何の意味もなく消えていく無数の命。
そして、家族との別れと、最期。
(これが、この国の歴史の行き着く先だ。俺は、この歴史を変えたい)
(……そんな事があったのか。……お主の気持ちはわかる。しかし、わしが天下を取ることと関係があるのか)
(まず、お前の目的を再確認しよう。お前は、浅井家を復興し、母君であるお市様や、妹たちを救い出したい。そうだな?)
(……あぁ、そうだ。それだけが、俺の生きる理由だ。あの地獄から這い上がってきた意味だ)
(ならば現実を見ろ。信長が生き延びた以上、お前の母や妹たちは、あの絶対的な支配者の手駒として完全に掌握され続ける。浅井の再興など、信長が許すはずがない)
満福の奥歯が強く噛み締められる音が響いた。口内に血の味が広がる。
(お前が家族を救い、一族を復興させるためには、最終的に織田信長という巨大な頂点と衝突し、これを打ち破る以外に道はない。それはつまり、信長に代わってこの日ノ本の頂点に立つこと。すなわち「天下を取る」ことと、実質的に何ら変わりはない)
満福が沈黙した。彼の明晰な頭脳は、すでに理解している。中間など存在しない。食うか、食われるか。支配されるか、支配するか。妥協点など、戦国には存在しないのだ。
(わしが信長を……あの化け物を越える……)
(お前には俺がいる。何百年先までの歴史の失敗例と「知識」がある。そして何より――お前を信じ、共に死線を潜り抜けようとする仲間がいる。これは、力と恐怖だけで縛られた群れにはない、極めて強靭な結束だ。環境の変化で容易に瓦解する信長の群れとは違う)
満福は、冷や汗にまみれた顔を上げると、その瞳から絶望の色が完全に消え去り、冷酷なまでの生存者の光が宿り始めていた。
彼は、自らの運命と、時任の避けては通れない要求を、その体に飲み込んだのだ。
(……天下など、未だ想像もつかん。だが、母上たちを救うために信長という頂点を喰い殺さねばならぬという理屈は分かった)
満福はゆっくりと立ち上がった。
(だが時任。天下を語るにも、まずはこの局面、どう動けば良いと思う?)
その覚悟を伴った問いに、時任は内心で深く頷いた。感情の揺らぎを切り離し、
即座に最適解、すなわち、『生存への細い道』を求める思考へと移行した。
(あぁ、その最適解、教えてやる。)




