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戦国昆虫戦記【変態飛翔】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第一章 崩落の安土

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第一話 昭和の悲劇

昭和二十年(一九四五年)三月

帝都・東京


白金台にある東京帝国大学附属伝染病研究所の薄暗い実験室には、常にクレゾール石鹸とホルマリンの刺激臭が立ち込めていた。俺は顕微鏡の対物レンズ越しに、スライドガラスに固定されたハマダラカの形態を観察していた。翅の斑紋、触角の微毛、そしてメス特有の鋭利な口吻。このわずか数ミリの昆虫が、今、帝国陸軍の戦線を静かに崩壊させている事実を、軍の上層部は決して認めようとはしなかった。


南方戦線や大陸において、兵士たちの命を最も多く奪っていたのは、米軍の銃弾でも砲弾でもない。マラリア、デング熱、ツツガムシ病といった、節足動物を媒介とする感染症だった。ジャングルという極限の生態系に、予防策も持たない人間を大量に放り込めばどうなるか。結果は火を見るより明らかだ。メスの蚊は産卵のためのタンパク質を求め、兵士の皮膚に口吻を突き立て、唾液と共にマラリア原虫を血中へと送り込む。原虫は赤血球内で増殖し、破壊し、人体を激しい悪寒と高熱の反復へと陥れる。


俺は、あの狂気に満ちた戦争を微塵も肯定していなかった。

「大東亜共栄圏」などという政治的な妄言はどうでもよかった。俺が研究室に連日泊まり込み、防虫剤の配合や蚊の生態圏の特定に没頭していたのは、ひとえに無駄死にを防ぐためだった。弾薬の補給すら絶たれ、飢えと病に苦しみながら密林で朽ちていく見ず知らずの若者たち。彼らを一人でも多く、無傷とは言わずとも、せめて生きた状態で本土へ帰還させるための、ささやかな科学的抵抗だったのだ。


それに、俺には帰るべき場所があった。

木造の小さな借家には、新婚の妻がいた。彼女の腹はすでに大きく膨らみ、あと数ヶ月もすれば新しい命が産声を上げるはずだった。配給の遅配が続き、食卓には大豆の絞りカスやサツマイモの蔓ばかりが並んでいたが、それでも彼女は笑って俺の帰りを待っていた。俺は、生まれてくる子供に、狂信的な精神論に支配された国ではなく、論理と科学が機能するまともな世界を見せてやりたかった。だからこそ、この忌まわしい戦争が一刻も早く、可能な限り被害を抑えた形で終わることを願いながら、顕微鏡に向かい続けたのだ。


しかし、現実は常に科学の予測を、最も残酷な形で凌駕する。


三月十日、未明。

空襲警報のサイレンが、帝都の夜空を不吉に切り裂いた。防空壕へ向かうため、身重の妻の手を引いて外へ出た瞬間、俺は上空の異変に気づいた。低空から迫る、B-29爆撃機の巨大な四発エンジンの重低音。それは単なる機械の駆動音ではなく、圧倒的な工業力と物量が迫り来る、物理的な暴力の響きだった。


空が、不自然なほど明るく染まっていた。

米軍が投下したのは、通常爆弾ではない。M69焼夷弾。ナパーム、すなわちゼリー状に粘度を高めたガソリンを充填した化学兵器の雨だった。

木造家屋が密集する東京の都市構造を徹底的に計算し尽くした、絨毯爆撃。

着弾と同時にマグネシウムが発火し、周囲に飛び散った粘着性のガソリンが、家屋の木材や人間の皮膚にへばりついて燃え上がる。燃焼温度は摂氏千度を超える。隣組の竹槍訓練や、少量の水によるバケツリレーなど、無に等しかった。


火の手は瞬く間に広がり、個別の火災が融合して巨大な「火災旋風」を引き起こした。

周囲の酸素が猛烈な勢いで炎に吸い込まれ、熱風が竜巻となって街を蹂躙していく。防空壕に逃げ込んだ者たちは、炎に焼かれる前に酸欠と一酸化炭素中毒で次々と窒息死していった。逃げ場など、どこにもなかった。


妻の手を強く握り、燃え盛る路地を走り抜けようとした。だが、突風と共に隣家の屋根が崩落する予兆を俺の感覚が捉えた。俺は反射的に、隣にいた妻の背中を全力で突き飛ばした。直後、巨大な梁が俺の背中を無情に押し潰した。彼女は数メートル先、炎の届かぬ路地の先へと転がっていった。


「逃げろ……!」


声を絞り出そうとしたが、肺に吸い込んだ超高温の空気が気道を焼き、声帯を破壊した。視界が急速に赤黒く染まり、酸素を失った脳が警報を鳴らす。迫り来る炎の熱輻射が皮膚のタンパク質を凝固させ、炭化させていく。


瓦礫の隙間から、妻が呆然とこちらを振り返るのが見えた。俺は残った力を振り絞り、あごで先へ行くよう促した。彼女は泣きながら、火の粉の中を走り去っていった。せめて、彼女と、その腹の中にいる新しい命だけは、この不条理な歴史の連鎖から切り離したかった。彼女が火災旋風の圏外へ消えていくのを見届け、俺は安堵と共に意識を沈めた。


燃え盛る瓦礫の下で、燃え盛る瓦礫の下で、迫り来る死の苦痛に身を悶えさせながら、

俺の心を満たしていたのは悲哀ではない。純粋で、冷酷なまでの憎悪だった。


この国をこんな結末に導いた、軍の指導者たちへの憎悪。

兵站という軍事の基本すら理解せず、「大和魂」という非科学的な精神論で全てを補おうとした絶望的なまでの無知。科学を軽視し、生命を軽視し、ただメンツと保身のためだけに何百万という人間を地獄の釜へ放り込んだ連中への、到底許しがたい怒りだ。


そして、その指導者たちを生み出し、生命を「使い捨てる」ことを是としてきた、この国の歴史そのものへの激しい憎悪だった。個人の尊厳よりも、家や主君、国家という幻想のために死ぬことを美徳としてきた、血塗られた歴史の連鎖。二百年に及ぶ江戸の鎖国政策、その遅れを焦燥の中で取り戻そうとした明治の富国強兵策、そして列強に遅れを取るまいと帝国主義に走った昭和の経緯。その歪な近代化の果てが、この無意味に焼き尽くされる帝都の惨状なのだ。


どれほど論理的に思考しようとも、迫り来る炎の温度を下げることはできない。人体という有機物が、熱エネルギーによって無機物へと分解されていく。


(ふざけるな……。こんな、こんな非科学的な死が、俺の結末であっていいはずがない……!)


業火の中で肉体が完全に炭化し、意識の機能が停止するその瞬間まで、俺は指導者たちの無能と、歴史の不条理を呪い続けた。


――そして、その果てしのない憎悪と執念が、どういう因果か時空を超え、戦国というさらに野蛮な時代の、万福丸という一人のガキの脳髄に「俺」を定着させることになった。


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