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戦国昆虫戦記【第二部:変態飛翔編】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第一章 崩落の安土

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第七話 武田蜂起と、孤立の滝川

天正十年(一五八二年)六月八日 甲斐国・新府城


新府城の広間は、夏の湿った空気が、肌を刺すような重い緊張感に変わっていた。


武田勝頼は、上座で微動だにせず、眼前に平伏する透破すっぱの報告を受けていた。織田信忠が伊賀で討ち死にしたことにより、織田の武田征伐が事実上頓挫し、以来、この城は「滅亡」の縁から這い上がった武田の執念が渦巻く場所となっていた。


「……岐阜へ逃げ延びた信長は、権威を失墜させ、窮地に立たされておるか」


「はっ。京における明智の謀反、さらには近江の安土城までもが、浅井による奇計にて、跡形もなく崩壊。命からがら岐阜へ逃げ込んだものの、その威信は地に落ちております」


勝頼はゆっくりと目を開いた。 

そこには、かつて長篠で失った誇りと研ぎ澄まされた冷徹な牙が同居していた。

織田の次代を担うはずだった信忠が消え、絶対的な頂点にいた信長自身が根城を失い、美濃へ押し込められている。今の織田家には、もはや組織的な統率力など残ってはいない。


「天は、武田を見捨ててはおらなんだか」

勝頼の低い声が広間に響く。

「信長が岐阜で権威の修復に足掻いている今こそ、武田が失った地を取り戻す、天が与えた唯一の好機ぞ」


勝頼は立ち上がり、壁に掛けられた地図の一点を鋭く指した。

「穴山、直ちに駿河から遠江の国境へ兵を出せ。家康は、何としても三河へ帰り着こうと必死に足掻いておるはずだ。奴が戻ったとしても、即座に境界を脅かし、足止めせよ。わしは直ちに全軍を率いて信濃へ入る。信州に居座る滝川一益を叩き出し、武田の版図を奪還するのだ。織田の支配に、今こそくさびを打ち込んでくれる」


かつての猛虎が、死地を脱して再び咆哮した。織田の支配という重石が浮いた瞬間、甲斐の軍勢は武田再興の狂熱を帯び、凄まじい速度で一斉に動き始めた。


---


天正十年(一五八二年)六月九日 信濃国・小諸


一方、信濃の最前線を抑える滝川一益は、不気味なほどの「空白」の中にいた。

周囲の山々からは夏の蝉の声が響き、見慣れた情景が広がっている。

だが、一益の陣屋を包む空気は、数日前までのそれとは完全に異なっていた。


「……岐阜からの確報は、まだか」

一益の問いに、控えていた側近たちは重苦しい沈黙で応えるほかなかった。


一益は、情報の断絶という名の監獄にいた。

美濃へと通じる南信濃の各砦との連絡が次々と途絶え、信濃全域に「信長敗走、安土消滅」という噂が泥濘のように広がっている。


本来であれば、織田の嫡男たる信忠が総大将としてこの地に入り、東国を統括するはずであった。だが、一年前にその後継者を失った織田家には、一益という最前線の軍勢を美濃本国と繋ぎ、支えるための指揮系統が初めから欠落していた。信長という絶対的な恐怖のみで縛り付けていたその脆弱な支配態勢は、安土敗走の噂一つで、砂の城のように崩れ去ろうとしている。


「申し上げます! 甲斐より武田勝頼の主力、信濃へ侵攻! さらには真田昌幸めが武田に呼応し、北方の道を完全に封鎖いたしました!」

土埃に塗れた伝令の悲鳴が陣屋に響いた。


一益は立ち上がり、腰の刀の柄を強く握りしめた。だが、凶報はそれだけでは終わらなかった。


西へ放っていた別の斥候が、血相を変えて陣屋へ転がり込んでくる。

「西の木曾路、抜けられませぬ! 木曾義昌が突如として関所を閉じ、我らの退路を遮断いたしました! すでに武田の旗印が翻っております!」


「……木曾までもが、寝返ったか」

一益の周囲で、絶望のどよめきが広がった。


恐怖で押さえつけられていた信州の国衆たちが、織田の衰退を悟った瞬間に一斉に牙を剥き、美濃への最短経路という「蓋」を閉じたのだ。


一益は、悟った。

自分は、切り離された捨て駒なのだと。主君である信長が岐阜に封じ込められている以上、どれほど暴れても、周囲の野武士に殺されるのを待つだけだ。

「全軍、退却……! 力尽くで木曾路を強行突破し、岐阜へ戻るぞ!」


一益の悲壮な号令が下される。だが、その退路には、再起した武田の精鋭騎馬隊と、手の平を返した地元勢力の罠が幾重にも張り巡らされていた。岐阜へと続く道は、今やこの世で最も遠く、険しい死地と化していた。


---


その後の数日間は、いくさと呼べるような代物ではなかった。

それはただの一方的な狩りであり、大軍が統制を失って崩壊していく無惨な過程を見せつけられるかのようだった。


小諸から木曾路へと向かう滝川軍の背後には、乾いた大地を蹴り立てて武田の騎馬隊が容赦なく襲い掛かった。一度でも陣形が崩れれば、それを立て直す術は一益の手元には残されていない。


「進め! 立ち止まるな!」

一益は馬上で怒号を飛ばしたが、その声は兵たちの悲鳴と、吹き荒れる熱風にかき消された。


美濃への玄関口である木曾谷では、かつての味方である木曾義昌の軍勢が谷を塞ぎ、鉄砲と弓を雨霰と撃ち下ろして待ち構えていた。前門を塞がれ、後方から武田に喰い破られた織田軍は、ここにおいて完全に瓦解した。


将兵たちは次々と武器を捨てて山中へ逃亡し、昨日まで一益に平伏していた国衆たちは、我先にと滝川軍の荷を奪い、落ち武者狩りへと転じた。一益を逃がすため、長年付き従った譜代の家臣たちが次々と盾となり、砂塵の中で無惨に命を散らしていった。


---


天正十年(一五八二年)六月十一日 美濃国・岐阜城


安土城崩壊という悪夢を背に岐阜へと逃げ込んだ織田信長は、苛立ちの中で軍勢の再編を急がせていた。

だが、美濃・尾張の国衆たちの動きはひどく鈍かった。神の居城であった安土が消滅し、信長が命からがら逃げ帰ってきたという現実は、彼らの骨の髄まで染み付いていた「絶対的な恐怖」を確実に薄れさせていた。


信長は、東国からの援軍を渇望していた。信濃を抑える滝川一益の軍勢が美濃へ合流すれば、再び天下に号令する軍事力を取り戻せる。そう信じて疑わなかった。


だが、その一縷の望みすらも、転がり込んできた急報によって無残に打ち砕かれる。


「申し上げます……!」

広間へ駆け込んできた伝令は、息も絶え絶えに床へ平伏した。


「信州より急ぎの報せ! 甲斐の武田勝頼が挙兵し、信濃へ侵攻! さらには真田、木曾ら国衆もことごとく武田に寝返り、街道を完全に封鎖いたしました!」


「何だと……?」

信長の顔から血の気が引いた。死に体であったはずの武田が、この機に再び立ち上がったというのか。


伝令は、さらに絶望的な事実を吐き出した。

「現在、滝川一益様の軍勢は小諸にて完全に孤立! 美濃への退路を絶たれ、身動きが取れぬ状況にございます!東国からの援軍は、絶望的にて……!」


「……一益が、封じ込められただと?」

信長はうわ言のように呟き、床几にどさりと腰を落とした。


東の盾である滝川が釘付けにされ、再起した武田の軍勢が美濃の背後へ迫ろうとしている。西には京を制圧した明智と、安土を崩壊させた浅井が立ちはだかっている。絶対的であったはずの魔王の版図は、今や東西を塞がれた孤立無援の牢獄と化していた。


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