第八話 家康の帰路
天正十年(一五八二年)六月六日 和泉国・堺の湾
夜明け前の海は、重苦しい鉄色に沈んでいた。
波頭が船べりを叩く湿った音が、不気味に響く。暗闇の中で揺れる小舟の只中、徳川家康は厚い木綿の羽織を固く合わせ、じっと水平線の向こうを睨み据えていた。その目には、数晩まともな眠りについていない者の、濁った、しかし獣のように鋭い光が宿っている。
京での異変を知ったのは、四日前の六月二日、昼下がりのことであった。
堺での見物遊山を切り上げ、京へ向かっていた道中、河内国・四條畷のあたりで、茶屋四郎次郎が血相を変えて駆け戻ってきた。あの一報を聞いた瞬間の、内臓を素手で握り潰されたような感覚を、家康は生涯忘れることはないだろう。
明智光秀の謀反により、絶対的な頂点であった織田信長が京を追われ、安土へ逃げ込んだというものだった。
さらに出航間際には、権威の象徴であった安土から火の手が上がったという噂まで飛び込んできた。信長という重石が浮き上がり、秩序という名の檻が壊れた。それは、天下が再び飢えた獣たちの食い合いへと戻ったことを意味していた。
「……山は、やはり叶わぬか」
家康の掠れた声に、傍らに控えた服部半蔵が音もなく応えた。その声音には、忍びとしての矜持を削り取られたような、暗い敗北感が滲んでいる。
それは二日前、六月四日のことであった。伊賀の山中へ斥候を放っていた半蔵が、泥と脂汗に塗れて戻り、絶望的な報告を上げた。
「案内人は、一人もおりませぬ」
半蔵は、拳を握りしめたまま震えていた。
「かつて我らに通じていた伊賀・甲賀の国衆、山道を知り尽くした案内人どもは……悉く、昨年のうちに消されておりました。浅井満福が昨年甲賀を守り抜いた折、奴は織田に寝返った者たちを、赤子に至るまで一人残らず排除いたしました。裏切りを許さぬあの者の苛烈さは、今や山中の草木に至るまで恐怖として染み付いております。我らの道案内を頼めそうな者たちは、すべて浅井の命によって粛清され、骸すら残っておりませぬ」
陸路を断たれた家康は、この二日の間に、堺の豪商・今井宗久らと水面下で交渉を重ねてきた。信長が権威を失墜させた後の「次の後ろ盾」を求める商人たちに対し、徳川の将来を担保に、命を乞うたのだ。三河・遠江を支配する主が一介の商人に頭を下げ、船と船頭を求める。その屈辱を、家康は泥水をすするように平然と飲み込んだ。
まずは、何が何でも生き残らねばならない。この家康の生存に対する執着が唯一の活路を開いた。
「出せ。……夜が明ける前に、沖へ出る。畿内の喧騒が届かぬ場所までな」
家康の命に従い、人足たちが静かに櫓を漕ぎ始めた。
背後には、依然栄える堺の灯火が遠ざかっていく。しかし、前方には、暗黒の荒波と、織田の威光失墜により活気づく紀州の土豪や、野盗と化した海の者たちが潜む危険な海路。家康は冷たい波飛沫を浴びながらも、決して折れぬ不気味な強靭さをその背中に湛えていた。
* * *
紀伊半島を迂回し、伊勢湾から三河を目指す海路は、想像を絶する過酷さであった。
夏の重く湿った強風が小舟を容赦なく煽り、家康たちの体力を刻一刻と奪っていく。満足な真水も食糧もなく、ただひたすらに追手の影と、海面に潜む野盗の気配に怯える日々であった。
夜になれば、漆黒の闇の中から雑賀や熊野の水軍がいつ襲いかかってくるか分からず、昼になれば、通りがかる名もなき漁船の目にすら神経を尖らせた。家康は揺れる船底に身を潜め、塩水で荒れてひび割れた唇を噛み締めながら、ただ故郷の土を踏むことだけを強烈に念じていた。
武士としての誇りも、大名としての威厳も、この大海原の上では何の役にも立たない。あるのは、ただ「生きたい」という生物としての剥き出しの渇望だけであった。
* * *
数日後。三河国・岡崎城。
徳川家康は、荒れ狂う海を渡り、九死に一生を得て自領へと辿り着いた。
潮風に汚れ、ボロボロになった羽織を脱ぎ捨て、数日ぶりに己の城の床几に腰を据えた家康の瞳には、これまでの鬱憤を晴らさんとばかりに、野心の炎が激しく燃え盛っていた。
「平八郎、小平太! 直ちに軍勢を整えよ!」
城の広間に、家康の力強い声が響き渡った。
「光秀を討ち、岐阜へ逃れられた上様の窮地をお救いする体で、大軍を率いて京へ上る。信長公の威信が地に落ちた今、この混乱を収めし者こそが次の天下の覇権を握る。遅れてはならぬぞ!」
本多忠勝、榊原康政ら精強な三河武士たちが、一斉に咆哮した。主君の無事の生還に歓喜し、戦の熱狂に浮かされた彼らは、即座に領内への動員を開始した。
三河武士の異常なまでの結束力と組織力は凄まじく、わずか数日のうちに、各所からかき集められた数千の精鋭が、泥に塗れながらも進軍の準備を整えつつあった。
天下の趨勢は、西からの羽柴か、北からの柴田か、そして、東から上る徳川か。家康が己の直感に従いそう確信した矢先のことである。
その野望は、一人の泥まみれの伝令によって無惨にも打ち砕かれた。
「申し上げます! 駿河より急報!」
陣屋に駆け込んだ使者は、尋常ではない恐怖に目を見開き、全身を小刻みに震わせていた。
「本能寺の変報を受け、甲府に逼塞しておりました武田勝頼が、蜂起いたしました! 信濃の滝川軍を包囲すると同時に、穴山信君が率いる別動隊が、怒濤の如き勢いで我が領内、遠江国境へと侵攻を開始しております!」
「な……何だと!? あの猛虎が、この機に檻を破りおったか!」
家康は床几から立ち上がり、茫然と立ち尽くした。
追い詰めながらもあと一歩で頓挫した武田征伐。その後、死に体ながらも甲斐で息を潜めていた武田勝頼が、信長の敗走という千載一遇の機に乗じて完全に息を吹き返し、背後から徳川の喉元に牙を剥いたのである。
京へ進軍し天下の覇権に絡むどころではない。自らの本拠である三河・遠江を守ることすら危うい事態となった。
家康は拳を強く握りしめ、血が滲むほどに奥歯を噛み締めた。
背後には死地から蘇った武田の軍勢が迫り、前方には、浅井と明智、羽柴が渦巻く畿内の混沌が広がっている。
家康は、三河・遠江の防衛に全軍を張り付けることを強いられた。
天下の覇権を争う京の盤面から物理的に切り離され、ただひたすらに武田の猛攻を凌ぐという、泥臭く絶え間ない防衛戦へと身を投じるほかなかったのである。




