第九話 泣く勝家と、嗤う秀吉
天正十年(一五八二年)六月十日
北陸から京へと続く街道は、降り続く梅雨の豪雨によって、足首まで埋まる底なしの泥濘と化していた。
「進め! 一刻も早く京へ向かい、逆賊・光秀の首を刎ねるのだ!」
柴田勝家は、泥に塗れた馬上で大音声の号令を飛ばし続けていた。
越中・魚津城を焼き払い、背後の上杉景勝への抑えは前田と佐々に託し、強行軍を続けてきた北陸方面軍。兵たちの疲労は極限に達し、道端には倒れ伏す者が続出していたが、勝家は一切の休止を許さなかった。
絶対の主君である織田信長が、本能寺を追われ安土へ逃げ込んだという凶報。勝家を突き動かしているのは、主君を救い出し、織田家の筆頭家老としての威信を示すという、猛将の純粋な忠義と怒りであった。
だが、必死の強行軍で越前国を抜け、近江との国境へと差し掛かろうとしたその時、前方から泥水にまみれた数騎の斥候が転がり込んできた。
「申し上げます! 近江より急報! 安土城が謎の崩落を起こし、完全に消滅! 上様は命からがら、美濃の岐阜へ逃れられたとのこと!」
「な、何だと……? 安土が、落ちた?」
勝家の声は、雨音に掻き消されそうなほど弱々しかった。
神の居城であるはずの安土が消え、上様が逃げ惑い、岐阜へ引き籠もったという信じ難い凶報。それは、天下人としての威信が完全に砕け散ったことを意味していた。
「叔父上……いかがなされますか」
傍らに控える佐久間盛政が、沈痛な面持ちで尋ねる。ここから西へ進めば京は目と鼻の先。光秀を討ち取る最大の好機である。だが、東の岐阜へ向かえば、光秀討伐の功を他者に奪われることになる。
勝家は、西の空を睨みつけた。その目から、雨水に混じって血の滲むような涙が流れ落ちた。
「……上様あっての、この勝家よ。絶対であったはずの殿が、今や岐阜で怯え、孤立しておられるのだ。命令を待つまでもない、今すぐ駆けつけるのが筆頭家老の務め!」
勝家は手にした采配を、泥の海へ力強く振り下ろした。
「全軍、進路を岐阜へ取れ! 何に代えても、上様をお守りするのだ!」
その悲壮な号令は、織田軍の最も強固な矛が、ただの盾へと成り下がった瞬間であった。
* * *
時を同じくして、摂津国・尼崎。
泥濘に覆われた街道を、異常な熱気を孕んだ巨大な軍勢が「走って」いた。羽柴秀吉が率いる三万。狂気の強行軍である。
沿道には秀吉が事前にばら撒いた金で炊き出しが行われ、兵たちは握り飯を口に押し込みながら、ただひたすらに東を目指していた。
「殿! 上方より急報にございます!」
泥まみれになった黒田官兵衛が、馬を寄せて秀吉に耳打ちした。
「安土が崩落。上様は命からがら岐阜へ逃れられました」
その報告を聞いた瞬間、馬上の秀吉は突如として天を仰ぎ、声を上げて泣き崩れた。
「おお……! 上様! よくぞ、よくぞご無事で岐阜へ! この藤吉郎、必ずや光秀の首を討ち取り、上様の御前にお持ちいたしますぞぉぉ!」
兵たちに聞こえるほどの巨大な鳴き声。それは主君の無事を喜ぶ、忠臣の美しい姿そのものであった。
だが、顔を覆う両手の隙間、深く被った編み笠の奥で、秀吉の目は爬虫類のように冷たく、鋭く光っていた。
(……信長様は生きている。だが、安土を失い、完全に怯え切って岐阜に引き篭もったか。柴田の親父殿も、上様を追って必ず岐阜へ護衛に向かうはずだ)
秀吉の脳内で、盤面が急速に書き換えられていく。
絶対的な「神」であった織田信長が、地を這うただの人間へと墜落した。今、京を占拠する明智光秀を討ち果たせるのは、巨大な兵力を維持したまま目前まで迫っている己の軍勢だけである。
(わしが光秀を討てば、どうなる? 岐阜で震えているだけの上様と、それに付き従う柴田の親父殿。片や、主君の仇を討ち、京を平定したこのわし。……織田家における力関係は、完全にひっくり返るぞ)
秀吉の唇の端が、泥に塗れた顔の中で不気味に吊り上がった。
信長が死んでいれば、そのまま天下を簒奪するつもりだった。だが、信長が生き残ったことで、秀吉の嗅覚は「より確実で、より巨大な果実」の腐臭を嗅ぎ取っていたのだ。
信長という巨大な主君を生かしたまま、その内部の権力を完全に食い尽くし、最後には己が新たな「天下人」として羽ばたく。
「急げ! 明智の軍勢が待ち構える山崎へ! わしが天下の……いや、上様の仇を討つのだ!」
秀吉の号令が響き渡る。
狂気を帯びた羽柴軍三万は、まるで死肉に群がる軍隊蟻のように、凄まじい速度で淀川の湿地帯へと雪崩れ込んでいった。




