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戦国昆虫戦記【変態飛翔】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第一章 崩落の安土

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第十話 秀吉四万と、大義の劇薬

天正十年(一五八二年)六月十二日 京と大坂を繋ぐ唯一の要衝、山崎。


降り続く雨は、淀川沿いの湿地帯を底なしの泥濘へと変え、街道を往く軍勢の足取りを容赦なく奪っていた。その重苦しい空気が立ち込める中、天王山の山頂付近に設営された仮の本陣では、合戦直前とは思えぬ喧しい押し問答が繰り広げられていた。


「……絶対に嫌だよ!なんであたしが、あんな死に損ないのおっさんの前で、しおらしく『おほほ』なんて笑わなきゃならないんだい!」


足軽の具足を纏い、泥に汚れた忍び姿の冴衣が、烈火の如く怒鳴り散らしていた。その手には、満福に預けた足利家の家紋入りの「うすもの」が握りしめられている。


「第一、この紗はあたしの数少ない実家の形見なんだよ! 変なことに使うなって釘を刺しただろ! なんだい『大義の劇薬』って。あたしは毒薬の調合はしても、自分が劇薬になる趣味はないよ!」


対する満福は、いつもの冷静さはどこへやら、なりふり構わぬ必死の顔で冴衣に懇願していた。

「頼む、冴衣。お主しかおらんのだ。光秀殿は今、精神が完全に瓦解しかけておる。本物の足利の姫君であるお主が『大義』として微笑んでくれねば、明日の合戦を前に明智軍は逃亡兵で自滅してしまうのだ。これは浅井のため、ひいては日の本の未来のためなのだ!」


「うわ、出たよその口車! あんた、言うことがどんどん胡散臭くなってるよ! 大義だの日の本だの、あたしの知ったことか!」


(……ひどい言われようだな。)


(黙っていろ時任、明日の合戦の趨勢はこいつが握っておるのだ)


「冴衣、頼む! この通りだ! 一度だけでいい、明智の前で『将軍家の姫君』を演じてくれ! お主が頷いてくれれば、明智の兵は死兵の如く戦うはずだ」


満福が本気で涙目になりながら頭を下げると、冴衣は「はぁー」と深い溜息をつき、天を仰いだ。

「……ったく、しょうがないね。一度きりだよ。その代わり、終わったら最高級の干し肉を腹いっぱい食わせてもらうからね! あと、この紗は二度と変な策に使わせないから!」


「約束しよう! 佐助、準備を急げ!」


半刻後。

天王山の麓に本隊を配置し、羽柴軍の襲来に備えていた明智光秀が、数名の側近のみを連れて山頂の陣所へと登ってきた。その顔は、極度の緊張と不眠により、幽鬼のように蒼白である。

仮設の幕が張られた奥。そこには、先ほどまでの足軽姿が嘘のように、着慣れぬ小袖を纏い、薄暗い灯明の下で静かに座る冴衣の姿があった。

時任の助言により、あえて顔を紗の布で隠し、神秘的な雰囲気を演出している。


「……お、おお……」

光秀は、冴衣の前に辿り着くや否や、崩れるように畳に膝をついた。


「まさか、真に……義輝公の御息女が、生きておられたとは。この光秀、言葉もございませぬ……!」

光秀の震える声には、救いを求める者の切実な響きがあった。


「……面を、上げられよ。明智……殿」

冴衣の声は、緊張と不快感で不自然に硬くなっていた。


((……下手くそすぎるだろ))


脳内で重なった二人の呆れ顔を余所に、光秀はただ平伏し続けている。


「その双眸……凛とした佇まい。間違いございませぬ。亡き義輝様如き不屈の光が、姫君の中に宿っておりまする……!」

光秀の目から、堰を切ったように大粒の涙崩れ落ちた。

信長の首を取り逃がした謀反人として、その後の展望を描けず、孤立無援の地獄にいた光秀にとって、足利の血脈という「正統性」は、唯一の救いだった。彼は床に額を擦り付け、嗚咽しながら忠誠を誓う。


「信長に、一度は魂を売ったこの光秀……。されど、姫君という真の大義を得た今、迷いは消えました! この命、明日の戦にて、足利家再興の礎といたしましょうぞ!」


冴衣は、顔を隠した紗の裏側で、心底嫌そうな顔をしながら明智を睨みつけていた。

(……全く、とんだ茶番だね。あたしまで担ぎ出されたんだ。せいぜい明日の合戦、死ぬ気で働いてもらわないと割に合わないよ)


その様子を傍らで見ていた満福は、冷や汗を拭いながら、脳内の時任に語りかけた。

(……何とかなったな、時任。冴衣に姫の振る舞いは無理だってことは、はっきりしたが。光秀殿が勝手に眼光鋭い姫君だと思ってくれたおかげで、助かったよ)


(……ああ。人間、追い詰められると見たいものしか見えなくなるからな。

……だが、これで明智軍の士気は臨界点を超えた。数で勝る秀吉を迎え撃つための、最低限の『毒』は回ったな)


「佐助、天王山の『仕掛け』を検分する。……案内せよ」

雨の降りしきる天王山の急峻な斜面。そこでは佐助と六助が、泥にまみれながら作業を続けていた。


「……殿、こちらです。滑りますからお気をつけくだせえ」

六助が差し出した提灯の明かりが、山積みにされた『泥の筒』を照らし出した。竹筒の内部には、六助が培養した吸血虫……ウシアブやマダニ、そして悪臭を放つカメムシやムカデが、飢餓によって狂暴化した状態で、湿った泥と共に詰め込まれている。


「六助、虫どもの塩梅はどうだ」


(……いいか、満福。吸血虫の恐ろしさはその執着心にある。特にウシアブの雌は、産卵のために哺乳類の血液を渇望する。鋭い大顎で皮膚を切り裂き、溢れ出た血を啜るのだ。この雨で体温の下がった兵たちが密集すれば、奴らにとってこれ以上ない熱源の塊に見えるだろう)

時任の解説が、冷ややかに脳裏に響く。


(さらにマダニだ。奴らの前脚には、獲物の吐息や体温、かすかな振動までを捉える**『特異な感知器官』**がある。それを頼りに、獲物目がけて落下するのだ。一度噛みつけば、その頭部を皮膚に埋没させ、数日間は離れん。……この雨と泥だ。虫どもにとっては、これ以上ない最高の戦場だな)


「筒の中は、あえて泥を多めに入れてありますだ。割れた拍子に泥ごと鎧の隙間へ滑り込む仕掛けです」

六助が不敵に笑う。


(上から投げ込まれた泥の筒が砕ければ、生きた弾丸は泥濘を伝って際限なく広がる。這い上がる兵たちは、鎧の隙間から肉を噛みちぎられる生理的地獄から、逃げる術はないぞ)


山崎の平地には、光秀の本隊が一万三千。各所に、磯野、高虎、喜三郎率いる浅井が四千。羽柴秀吉の軍勢三万は、今この瞬間も、中国大返しを駆けて迫っていた。



六月十二日夜。

天王山から見下ろす淀川の対岸に、無数の松明が海のように広がった。

明智浅井連合軍・一万七千。対して、羽柴秀吉軍・三万に、織田信孝軍・約一万四千が加わり、総勢四万を超える「物理的な暴力」が、ついに眼前に現れたのだ。


(時任、見えるか。あれが、お前の言っていた秀吉の軍勢か)


(ああ。……数だけなら二倍以上の開きがある。まともにぶつかれば、押し潰されて終わりだ)

時任の声は、冷徹な分析官そのものだった。


(だが、こっちには単純兵数以外の戦力がある。さっきの『大義の劇薬』で明智軍の士気は異常値だ。さらに、佐助の『狂い汁』で誘引したオオスズメバチの波状攻撃……。加えて、天王山の高所には、冴衣の鉄砲部隊が控え、鉛玉が羽柴勢を襲う。その守備に六助の『泥の筒』。そして、叔母上の援軍(京極軍)が加われば戦力差は縮まる。史実の山﨑の戦いとは条件が違う。……いいか、満福。勝負はまだ五分だぞ)


「……来るぞ、秀吉」

満福が呟いた。


降り止む気配のない雨の中、戦国の世の大きな分岐点「山崎の戦い」が、歴史の軌道を外れ、凄惨な幕を開けようとしていた。


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