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戦国昆虫戦記【変態飛翔】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第三章 天正十年の転換点

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第二十七話 理不尽なる女王と、忘却の花嫁

天正十年、八月中旬。


安土の復興拠点に据えられた仮本陣は、立秋を過ぎてもなお引かぬ湿った熱気と、戦後処理に奔走する家臣たちの体臭に包まれていた。吹き抜ける風には微かに秋の気配が混じるものの、中天に懸かる太陽は容赦なく照りつけ、人足たちの槌音を重苦しく響かせている。


床几に腰を下ろした満福は、卓上に広げられた近江・北陸の勢力図を睨みつけていた。

「高虎、敦賀の備え、頼んだぞ。柴田が越前から南下する路は、石一つ通さぬようにな。……灰庵、安土の湊の普請、進捗はどうなっている」


「はっ、徴用した人足三千が昼夜を分かたず作業に従事。船着き場の拡張は予定通り進行しております」


満福の思考は、まるで精密な時計仕掛けのように動いていた。北陸を分断し、信長を岐阜に封じ込めた今、彼の脳内にあるのは「織田・柴田の包囲網」の完成という一点のみである。その横顔には、数えで十八となった少年らしからぬ、冷徹な統治者の貌が張り付いていた。


だが、その張り詰めた空気を、淡々とした、しかし抗いがたい重圧を伴う声が遮った。


「まんぷく。お主、先刻から国のことばかり語っておりますが、他に忘れていることは御座いませんこと?」


軍議の席に、列席の一人として座していた京極の叔母上が口を開いた。扇を膝に置き、その瞳は戦場の槍衾よりも鋭く満福を射抜いている。元よりこの軍議、叔母上は「京極家の名代」として当然の如く列席しており、満福の差配を値踏みするように観察し続けていたのだ。


満福は地図から顔を上げず、僅かに眉をひそめた。

「……叔母上、今は軍議の最中に御座います。領内の差配こそが、今の浅井にとって最優先。家中の私事は後に……」


「ほう、最優先。浅井の血を繋ぐ花嫁たちを、甲賀の山奥の館に泥を啜るが如く放置しておくことが、お主の言う『優先』ですの?」


叔母上の手が、懐から一束の文を取り出し、卓上へと叩きつけられた。丁寧に畳まれてはいるが、紙の端が僅かに波打っているのは、書き手の湿った感情が乗り移ったせいか。


「お照とお静、あの娘たちからわたくしに届いた文ですわ。お主へは何度文を出しても返事がないと。『もしや戦火に巻かれたのでは』と、あの子たちは毎日、甲賀で泣き暮らしております。……新婚早々、夫に忘れ去られた女の悲しみ、お主に分かりますこと?」


「……!」

満福の思考が、一瞬で凍りついた。

(……そういえば、わしには、嫁がいたな……)


時任の、他人事のように乾いた声が脳内に響く。

(……お前、これは詰みだな。この二ヶ月余り、戦に全てを割いた結果、家庭の記憶を消失したか。夫としての責任感が欠落していると言わざるを得ない。……あぁ、姫達は不憫であるな)


憐れみを含んではいるが、その語り口はまるで他人事のように冷淡だ。


満福の背中に、嫌な汗が伝わった。

「い、いや、叔母上。それは誤解に御座います。わしは片時もお二人を忘れたことなど……。ただ、安土の普請があまりに多忙ゆえ、安全を期して甲賀に留めていただけのこと……」


「あら、左様ですか? では、なぜ文の一通も返さぬのです? お静は『殿の頭の中には、私たちの事など少しも無くて、ただ戦と領地拡大しか詰まっておられるのでしょうか』と、恨み節を綴っておりましたわよ。……文にすら返事がないから、母であるわたくしにまで泣きついてきたのです」


叔母上の扇が、ぴしゃりと閉じられた。その乾いた音に、周囲に控えていた家臣たちの空気が一変した。


「叔母上様のお仰せ、誠にその通りにございます! お迎えの儀、我らにお任せを!」

真っ先に声を上げたのは、藤堂高虎であった。普段の沈着冷静さはどこへやら、叔母上を崇める熱烈な眼差しで跪いている。


「いかにも! 姫君方をいつまでも山中に置いておくなど、不憫の極み。すぐにでも近習を差し向けましょう!」

喜三郎までもが、高虎に同調して鼻息を荒くした。浅井家の勇将たちが、主君である満福を差し置いて、叔母上の背後に後光でも見えているかのように加勢を始めたのである。


満福は、味方であるはずの重臣たちの裏切りに辟易とし、顔を歪めた。

「……待て。まだ近江は安定していない。そのような折に、女子を安土に置くなど危険極まりない」


必死の弁明であったが、叔母上は鼻で笑った。

「近江を安定させるのがお主の仕事でしょう。妻一人守れぬほど無能なのですか? 高虎、喜三郎、お主たちに任せますわよ。明日にでも甲賀へ発ちなさい」


「「ハッ! 直ちに!」」

二人の返事があまりに鮮やかで、満福はもはや溜息をつく気力も失せた。


静まり返った陣内で、満福は卓上に散らばった文の束を、爆薬でも見るかのような目で見つめた。


(時任……。わしは、どうすればよい。お照が来れば、わしの日常は一瞬でかき乱される。お静が来れば、わしの不手際を論理的に糾弾され続けるだろう……。戦の方が、幾分かましだ……)


(……満福、諦めた方が良いのではないか。これは自業自得というものだ。女性の憤りというのは、古来から三百五十年後の未来まで質が悪い。俺にも思い当たる節があるから気持ちはわかるがな。しかし、……十八で三人の女性――特におの叔母上も含めて――を相手に立ち回らなければならないお前の人生もなかなかの難行だな)


満福は深く、深く溜息をついた。天下への大望を抱いた少年の肩が、かつてないほど小さく震えていた。


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