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戦国昆虫戦記【変態飛翔】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第三章 天正十年の転換点

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第二十六話 膠着の代償と、四つの怪物

天正十年(一五八二年)八月、深夜。


仮普請の安土に夜の帳が下り、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。遠くでかすかに琵琶湖の波音が聞こえるばかりである。


満福は、灯明の揺れる自室に独り座し、昼間の軍議で佐助が広げた日ノ本の絵図面を睨み続けていた。

近江、越前、美濃、そして大坂。中央の狭い盤面に、強大な兵力を示す木札がひしめき合っている。秋の収穫という短い猶予ののち、これらが一斉に血みどろの殺し合いを始める。その重圧は、並の将であれば押し潰されて発狂しかねない代物であった。


だが、満福の脳裏に響いたのは、その中央の重圧とは全く別の方向から放たれた、冷や水のような声だった。


(満福。昼間の佐助との情勢分析は見事だった。畿内とその周辺における膠着状態は、お前の言う通りだ。……だが、本当に天下を目指すなら見る範囲を広げる必要がある)


「時任か」


満福は声に出さず、意識の中だけで応じた。脳の奥底に棲み着く昭和の時任の声は、いつになく低い。


(お前は『物流を止めて敵が身動き取れない』と喜んでいたが、それはあくまで中央……この畿内周辺だけの局所的な話だ。首を絞められている織田や柴田だけだということに気づいているか?)


「どういうことだ。勿体ぶるな」


(俺の知る『史実』、つまり本来の歴史において、天下人となる織田信長や羽柴秀吉は、常に外へ外へと武力による強烈な干渉を広げていった。その中央からの圧倒的な軍事圧力こそが、地方の大名たちを間引き、巨大化を防ぐ中央の勢力として機能していたんだ)


時任の言葉の端々に、帝大で培われた観察眼が混じる。


(だが今、お前が安土と敦賀で物流を堰き止め、羽柴や織田と睨み合っているせいで、畿内は完全に身動きが取れなくなった。中央からの干渉という勢力が、地方から完全に消失したんだ。……最大の敵を失った地方の勢力がどうなるか、わかるか?)


「……異常なまでに巨大化する、か」


(その通りだ。今、この絵図面の空白地帯……お前たちの視界の外側で、本来ならば中央に間引かれるはずだった『四つの怪物』が、誰にも邪魔されることなく完全体へと巨大化しようとしている)


時任の言葉に合わせるように、満福の視線が絵図面の辺境へと動いた。


(第一の怪物は西。中国地方を支配する毛利だ)

時任が淡々と語る。

(史実では、秀吉の執拗な侵攻によって国力を削られ、最終的には屈服させられた。だが今、秀吉はお前たち浅井を警戒して大坂から動かない。巨大な防壁が東に立ち塞がってくれたおかげで、毛利は一切の血を流すことなく、広大な領土と強大な水軍を完全に温存している。無傷のまま、西国の富を貪り続ける巨大な独立国家だ)


満福の目が、絵図面の西端をなぞる。


(第二の怪物は南。四国の長宗我部元親だ)

(史実ならば、ちょうどこの天正十年の夏、信長が堺から大規模な四国征伐軍を渡海させ、長宗我部を叩き潰すはずだった。だが本能寺の変と、お前が引き起こした物流の麻痺により、その討伐軍は幻と消えた。もはや四国に長宗我部を止める者はいない。奴らは一領具足と呼ばれる屈強な兵を率い、あっという間に四国を完全統一するだろう。誰も手出しできない、海に囲まれた天然の要塞国家の誕生だ)


時任の語る未来視は、軍略というよりも、歴史の変化を冷酷に記述する預言者のそれであった。


(そして第三の怪物。さらに西、九州の島津だ)

(これも史実なら、数年後に秀吉が大軍を率いて九州へ上陸し、島津の猛進を間一髪で食い止める。だが今の秀吉にそんな余裕はない。中央の救援が来ないと悟れば、大友も龍造寺も、島津の恐るべき軍略の前にすり潰されるのは時間の問題だ。九州全土が、薩摩の精強な兵どもに席巻されるだろう。中央の手が届かぬうちに、南州に盤石な覇権が確立される。それはもはや、一介の大名ではなく独立した軍事帝国だ)


満福は思わず息を呑んだ。畿内で数万の兵糧のやり繰りに血眼になっている間に、海の外では島を丸ごと飲み込むような巨大な帝国が、三つも生まれようとしているのだ。


(最後に、第四の怪物。東国の北条氏政だ。お前は武田勝頼を生き残らせたことで、東に分厚い壁を作った。武田と徳川が削り合ってくれるおかげで、三万を超える北条軍は背後を気にすることなく、関東平野の豊かな富を独占し、さらに北へと勢力を広げている。いずれ東北の伊達という若き狼も暴れ出すだろうが、それを止める『惣無事令(私戦禁止令)』を出す権力が、今の中央には存在しない)


時任の声が、深く、冷たく響いた。


(満福。お前が秋の収穫後に織田を破り、柴田を退け、血みどろの思いで秀吉を倒して中央を制したとしよう。だが、疲弊したお前を待っているのは、天下平定の甘い蜜ではない。天敵不在のなかで、ぬくぬくと完全体まで育ち切った『四つの巨大帝国』だ。奴らは傷一つ負っていない十万、二十万の軍勢で、疲弊しきった中央へ一斉に牙を剥いてくるぞ)


灯明の火がパチリと爆ぜた。

部屋の中は静寂に包まれているが、満福の額にはうっすらと冷や汗が滲んでいた。


畿内の膠着状態は、満福たちに安土を再建し、物流を握る時間を与えた。だが同時に、それは盤外に潜む地方の大名たちに「中央の干渉を受けずに巨大化する時間」という、最悪の代償を支払っていたのだ。


毛利、長宗我部、島津、北条。

本来の歴史の運命から外れ、突然変異を起こした四つの怪物たち。


「……なるほどな。よくわかった」


満福はゆっくりと息を吐き出すと、額の汗を拭い、絵図面を見据えた。その目には、絶望の色は微塵も浮かんでいなかった。むしろ、暗い炎のような闘志が燃え上がっている。


「上等ではないか。畿内の小競り合いで終わるような安い天下など、最初から望んではおらぬ」


(……満福?)


満福の口角が、不敵に吊り上がった。


「四つの怪物がそれぞれの地で太り、富と力を蓄えるというのなら、それで良い。奴らが盤石な大勢力になろうが、我らはこの安土を中心に、日ノ本の全ての富を吸い上げる巨大な国を造り上げる。商いと物流で奴らの内臓から喰い破るのもひとつ、または、力でねじ伏せるのも良いだろう」


満福の言葉には、戦国武将としての暴力的な野心と、時任から引き出した未来の姿が、恐ろしいほどの精度で融合していた。


「畿内を制するだけでは足りぬ。我らはいずれこの日ノ本という巨大な盤面すべてを喰らい尽くす算段を立てるぞ。

まずは手近な……柴田の親父を片付けるのが先だがな」


秋の収穫まで、残された時間はわずか。

安土の闇の中で、満福は四つの怪物の出現を覚悟しつつ、浅井が今進むべき道を静かに見定めていた。

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