第二十五話 盤上の駒たち〜天正十年八月の情勢〜
天正十年(一五八二年)八月。
六月二日の本能寺の変から、わずか二ヶ月。
たった六十日余りの間に、日ノ本の勢力図は天地がひっくり返るほどの激変を遂げていた。
近江 安土。
「城」と呼ぶには、そこはまだ巨大な普請場の様相を呈していた。至る所で槌音が響き、何千という人足たちが残暑の土埃に塗れて立ち働いている。かつて信長が築いた権威の象徴は崩れ落ちたが、その跡地に、灰庵の設計による新たな城の骨格が、今まさに組み上げられようとしていた。
安土の町に目を向けると、琵琶湖から引かれた真新しい堀にはすでに無数の荷船が浮き、この未完成の城下がすでに強大な富の集積地として機能し始めていることを物語っていた。
仮普請の大広間に、琵琶湖からの生温い風が吹き込む。
上座に座る満福は、目の前に広げられた巨大な日ノ本の絵図面を見下ろしていた。数え年で十八という若さでありながら、その佇まいは幾多の死線を潜り抜けた老練な将の威圧感と風格を放っている。
「皆、よくぞ生き抜き、ここまで辿り着いてくれた」
満福は、並み居る重臣たちを見渡して深く頷いた。
「六月の本能寺の変より、わずか二ヶ月。我らは怒涛の死線を潜り抜けてきた。
皆の血の滲むような働きがあってこそ、我らは今ようやく浅井復興の確かな礎を築き上げた」
満福の真っ直ぐな言葉に、生真面目な遠藤喜三郎が感極まったように平伏し、藤堂高虎が静かに、だが確かな忠誠を込めて頭を下げる。
「して、佐助。日ノ本の現状はどうなっている」
満福が視線を向けると、部屋の隅の影から、音もなく佐助が歩み出た。
「はっ。各地の忍から集積した情報を申し上げます」
佐助は、絵図面の上に各勢力の兵数を示す木札を置いていった。
「前提として、現在、多くの勢力が激しい疲弊の中にあり、数万規模の軍を動かす大規模な戦は物理的に不可能な状況に陥っております」
佐助の冷徹な分析に、満福は黙って頷いた。
「順にご報告いたします。まずは我ら浅井。近江および越前の敦賀を支配し、総兵力は約一万二千。数こそ突出しておりませんが、安土と日本海を結ぶ物流の要を抑えたことで、実質的な継戦能力と経済力は大きなものとなりました」
「盟友である明智光秀殿は、山城・丹波・丹後から近江坂本までを押さえ、兵は約一万七千。中央の安定を担い、西の羽柴への強力な防壁となって頂いております」
(明智光秀が本能寺で倒れず、一万七千の兵を抱えて浅井の防壁になっている、か……。俺の知る受験日本史の知識から完全に逸脱しているな)
満福の脳内に、時任の興奮を含んだ声が響いた。
「次いで、西国で独歩する巨獣、羽柴秀吉。摂津・播磨・和泉を押さえ、最大の兵数である約二万五千」
佐助の細い指が、大坂の木札を指す。
「織田家とは袂を分かち、大坂を拠点に事実上の独立状態にあります。堺の莫大な財力と海路を独占し、更に軍事の充実を図っている様子です」
「対して、岐阜城の織田信長公。信孝軍を吸収し再編したものの、本来三、四万を動員できる土地でありながら、現在の兵数は約一万二千にまで激減しております」
「柴田勢との分断と深刻な兵糧不足により、西の我ら浅井、東の武田に挟撃される格好になり、岐阜城から一歩も動けぬ状況です」
(あの織田信長が、一万二千まで戦力を削り落とされ、孤立している……)
「さらに、柴田勝家。越前にて一万二千、加賀の前田利家も同じく一万二千、合わせて約二万四千」
佐助は敦賀の木札をトントンと叩いた。
「精鋭ではありますが、殿が敦賀を封鎖したことで岐阜との連携は完全に遮断されました。西は我ら、東は上杉に挟まれ、豊富な蔵米に守られながらも身動きの取れない様子です」
「東国に目を向けます。東の巨人、北条氏政。相模・武蔵・上野を治め、推定兵力は三万。徳川と同盟し、織田の混乱を静観しながら東国の最大勢力となっております」
「その徳川家康は、三河・遠江に約一万。武田の侵攻を撃退しつつ北条と同盟。信長公との同盟は維持していますが、自領防衛で手一杯の防壁状態です」
「そして武田勝頼。信濃・甲斐に約一万五千。滝川一益を追い出し旧領を回復しました。上杉と同盟し、徳川や織田へ圧迫を強めていますが、北条の動き次第では即座に危機に陥る、薄氷の上に立つ勢力です」
(天目山の戦いが回避され、武田勝頼が生き残るとはな……。だが、北条に背を突かれればひとたまりもない、脆い均衡だ)
「残る勢力です。北陸の小龍・上杉景勝は、越後・越中・能登を支配し約一万二千。我らとの盟約に従い、柴田軍を背後から牽制しております」
「伊勢の北畠信雄は兵約八千。信長公への忠誠はありますが、国内の混乱により領国死守に奔走」
「最後に大和の筒井順慶、兵約八千。郡山城にて、織田か羽柴か、情勢を天秤にかけていると思われます。ご報告は以上です」
佐助の報告が終わり、部屋に重い静寂が落ちた。
「見事な膠着状態だな」
満福がぽつりと呟いた。
「左様でございます」佐助が応じる。
「どの勢力も、隣国を攻め滅ぼすだけの決定的な余力がありません。どこかが動けば、必ず背後を別の勢力に突かれる。非常に危うい力の拮抗の上に成り立つ、泥沼の睨み合いでございます」
(本能寺という巨大な歴史の転換点からわずか二ヶ月。俺が満福に寄生しただけで、歴史という巨大な奔流がここまで形を変えたか。しかし、我らが生き残る為の唯一の道筋。よくぞ、この版図を描けたものだよ)
(生き残った大名たちは皆、互いの出方を窺い、体力を温存するために身動きが取れずにいる。不用意に動けば、背後を別の勢力に突かれるからな。完璧なまでの膠着状態だ)
時任の言う通りだった。誰もが兵糧難にあえぎ、あるいは領内の再編に忙殺され、大軍を押し出すことができない。日ノ本全土が、薄氷を踏むような極度の緊張感の中で凍りついている。
満福は立ち上がり、仮普請の窓から、未完成の安土の眼下に広がる琵琶湖を見下ろした。土埃の向こうで、何十隻もの船が荷を積んで水面を行き交っている。
「皆が息を潜めて動けぬのなら、それで良い。だが――決して油断はできぬぞ」
満福の表情が、鋭く引き締まった。
「間もなく秋の収穫を迎えれば、奴らも新米で腹を満たし、必ず再び牙を剥いて動き出す。対して我らは、安土と敦賀の血脈を握ったとはいえ、この近江を制してからの日は浅い。足元の地盤は未だ脆く、我らの威光がこの地に深く根ざしているとは言い難いからな。強大な敵が息を吹き返せば、足元から一気に掬われかねない危うさがある」
満福の冷静な自己分析に、重臣たちの顔つきも一層厳しくなる。満福は振り返り、影に潜む若き忍へ鋭い視線を向けた。
「佐助、引き続き日ノ本中の動向から目を離すな。各大名の兵糧の集積、些細な兵の移動、すべてだ。僅かな火種も見逃すなよ」
「はっ。御意に」
佐助が深く頭を垂れる。
「我らに与えられた猶予はそれほど無い。盤上の駒どもが動けぬこの短い間に、我らはこの安土の普請を急ぎ、近江の地盤を盤石なものとする。次なる大戦の嵐に耐えうる、太く深い根を張るとしよう」




