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戦国昆虫戦記【変態飛翔】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第三章 天正十年の転換点

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第二十四話 塗り変わる北陸版図

天正十年七月十七日。


北国街道を吹き抜ける風には、暦の上では秋の訪れとなる七月特有の、微かな冷気が混じり始めていた。しかし、中天に懸かる太陽の容赦ない日差しは未だに夏の名残を色濃く残し、土埃を踏みしめて行軍する兵たちの背中にはどす黒い汗の染みが広がっている。


近江と越前を分かつ国境の山間において、歴史の巨大な歯車が軋みを上げながら逆回転を始めた。


「柴田軍、一万二千……。安土での飢えから脱するために、越前の蔵米を求めて北へ滑り込みましたな」


敦賀の湊を一望できる鬱蒼とした高台の陰で、藤堂高虎は冷徹な眼差しを北へ続く街道に向けていた。安土での極限の飢餓状態を辛うじて脱し、自らの本拠地である越前の豊かな蔵米という命綱にすがるようにして、柴田勝家の本隊はこの北陸の入り口を這うように通り抜けていった。


「左様。……高虎、合図を。ようやく、作戦実行の時が来たな」


傍らの茂みに身を潜めていた磯野員昌が、感情を削ぎ落とした低い声で命じた。


その直後である。木々の合間から放たれた鏑矢の鋭い甲音が、海風の吹く敦賀の空を切り裂いた。それを合図として、あらかじめ山林に伏せていた浅井の精鋭たちが、怒涛の勢いで敦賀の街へと雪崩れ込んでいった。


柴田の主力一万二千が国境を抜け切り、最後尾の小荷駄隊が姿を消した、まさにその刹那を突いた強襲。敦賀の守備隊は、よもや自らの背後――つい先刻まで味方の大軍が通っていた道――から牙を剥かれるとは夢にも思わず、組織的な陣形を組む暇すら与えられなかった。武具を纏う間もなく討ち取られる者、混乱の中で逃げ惑う者。わずか二日の血煙の末に、浅井軍は敦賀を完全に占拠し、越前への分厚い「蓋」を閉じたのである。


「これで、北陸は巨大な籠となった。柴田は、越前の米を食い繋ぐことはできても、その米を美濃へ運ぶことも、自ら戻ることもできぬ」


高虎の呟きは、戦局の冷酷な真理を突いていた。北陸の玄関口を力ずくで封鎖することは、単なる領地の一角を掠め取ることではない。柴田の軍勢を越前という空間に物理的に閉じ込め、同時に、美濃で孤立する信長への「後詰の路」を根底から消滅させること。それこそが、最も致命的な刃であった。


即座に、満福は佐吉をこの敦賀へ送り込んだ。佐吉に課せられたのは、敦賀の内政と港の抜本的な改修である。海岸線に立ち並ぶ粗末な船着き場を取り壊し、より深く波止場を広げ、北国からの大型荷船が直接横付けできる接岸施設の整備を命じた。


同時に、満福は高虎に対し、敦賀城の要塞化を命じた。

「高虎、お主にはこの城を、誰もが立ち入ることを拒む堅固な城へと変えてもらいたい。六助に甲賀からあの『毒虫』の運搬を頼んで、虫の要塞を築け」


その命を聞いた瞬間、高虎の双眸に狂おしいまでの歓喜が宿った。彼は、灰庵が安土城建設という未曾有の大事業に深く携わっていたことを、密かに羨んでいたのである。


「……御意ッ! 北陸の要として堅固な城を築いて御覧に入れます!」


築城への異常なまでの執念を燃やす高虎は、獲物を狙う獣のような笑みを浮かべた。潮の香りと泥土の匂いが混じる中、徴用された人足たちの槌音が響き渡る。それは、日本海航路からの富を確実に近江へと引き込み、同時に敵の侵入を恐怖で拒絶するための、新たなる防衛線の構築であった。



一方その頃、北陸の奥地は文字通りの阿鼻叫喚に包まれていた。


「越後の龍」の継承者、上杉景勝が動いたのである。若き執政である直江兼続を伴った上杉軍は、破竹の勢いで西進を開始。七月十五日には、水量を増した神通川を力ずくで渡河し、越中へと雪崩れ込んだ。


佐々成政が構築した防衛線は、上杉の猛攻に加え、領内における人心の離反によって脆くも瓦解した。魔王の権威の象徴たる安土城が崩落し、近江全土が浅井の掌中に落ちたという衝撃的な報せは、越中の国衆たちに織田の時代の終焉を予感させた。後ろ盾を失い、死守の意義を見失った地元勢は次々と持ち場を捨て、あるいは上杉軍へ内通したのである。内側から瓦解を始めた佐々軍は、軍としてのまとまりを失い、四分五裂の体となった。


背後から迫る上杉の刃を避け、成政に残された道は、前田利家が守る加賀へと逃げ延びることのみであった。


まだ残暑の熱気が立ち込め、息を吸うだけで肺が焼けるような重苦しい空気の中、成政は残った将兵を鼓舞し、道なき険路へと踏み込んだ。急峻な崖を這い上がり、深い谷を渡る行軍の中で、衰弱した兵たちが次々と脱落していく。追撃する上杉の先鋒を食い止めるため、殿の兵たちが山道に骸を晒していった。生還への執念だけが駆動する苛烈を極めた死の行軍であった。


七月二十五日、ようやく金沢の前田利家のもとへ転がり込んだ成政の軍勢は、当初の一万二千から、四千にまで削り取られていた。


這う這うの体で生還した彼らがもたらした報せは、北陸の柴田方に絶望を刻み込んだ。


さらに勢いに乗る上杉軍は、返す刀で北へと転進する。能登の七尾城を完全に包囲。織田からの後援を断たれ、兵糧の補給も途絶えた孤立無援の能登の諸将は、城を取り囲む「懸かり乱れ龍」の旗印の威容を前に、成すすべもなく降伏した。わずか半月余りの間に、越中、そして能登全域が上杉の支配下に塗り替えられたのである。


金沢城に集結した前田利家をはじめとする北陸の諸将の顔には、濃い疲労と絶望の色が張り付いていた。北には越中・能登を手中に収めた上杉景勝の圧力がのしかかり、南の敦賀は満福によって完璧に封鎖されている。頼みの綱である柴田本隊からの援軍は、一向に届く気配がない。彼らは広大な北陸の地に浮かぶ「陸の孤島」に完全に置き去りにされていた。


総大将である柴田勝家自身もまた、本拠地である越前の本拠地を死守するという重圧と、背後の満福に対する恐怖から、北ノ庄城に隔離されたまま一歩も兵を動かせずにいたのである。



美濃・岐阜城。


かつて天下布武を掲げ、日の本を飲み込もうとした巨城は、今や不気味なほどの静寂に包まれていた。最大の手足であった柴田軍は越前に釘付けにされ、畿内から押し寄せるはずの富と物資はすべて安土で堰き止められている。


城内を歩く丹羽長秀の足取りは重く、その顔には深い苦悩の皺が刻まれていた。蔵の兵糧はすでに底を見せ始め、足軽たちの間には飢えによる不満が鬱積している。打開策を求めて四方へ放った伝令は、険しい山道に伏せる満福の網にかかり、その大半が戻ってこない。入ってくるわずかな情報は、北陸の崩壊や国衆の寝返りといった絶望的なものばかりであった。


満福の浅井と、息を吹き返した武田に挟まれた岐阜城は、手足を縛られ、ゆっくりと血を抜かれている巨大な死に体そのものであった。


薄暗い広間の中央。織田信長は、ただ独り、燃え尽きようとする一本の蝋燭の炎をじっと見つめていた。その横顔には、かつての烈火のような覇気はない。外界とのつながりを完全に断たれ、物資も情報も枯渇した城の中で、魔王はかつてない静かな孤独の淵に沈んでいた。


己の終焉を突きつけるような圧倒的な包囲網の中で、信長は最後の決断へと静かに追い詰められていく。

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