第二十三話 魔王の落とし子、その無能
天正十年七月十日。美濃国・岐阜城。
岐阜城の広間に、信長の怒号が雷鳴のように落ちた。
目の前には、伊勢から這う這うの体で逃げ戻った信孝と、それを拒絶した信雄が並んでいる。
一万四千を数えた信孝の軍勢は、浅井の工作による兵糧不足と内紛、そして略奪に端を発した北畠信雄との衝突により、見る影もなく激減していた。
「信孝! 信雄! 貴様ら二人揃って何というザマだ! 兄は弟を罵り、弟は兄の足を引く。貴様らのその無能な争いが、我が覇道をどれほど汚したか分かっておるのか!」
身内で刃を向け合った息子たちの醜態に、信長は手近な燭台を蹴り飛ばした。
「……落ち着かれませ、上様」
荒れ狂う信長を鎮めようと、一人の武将が静かに、しかし重苦しい声を上げた。丹羽長秀である。
四国征伐軍の副将として摂津にあり、山崎の戦いにも参陣した宿老は、迷走する信孝軍の「重石」として、岐阜に帰還していた。
「五郎左(長秀)か。貴様がいながら、この体たらくは何事だ!」
「……返す言葉もございませぬ。されど、兵糧の欠乏は武勇で補えるものではありませぬ。大和の離反……これが元凶であり、その元には浅井の小僧が絡んでおるかと」
長秀は深く頭を下げたが、その眉間には深い皺が刻まれていた。
歴戦の彼には分かっていた。軍としての体を成していない信孝の残兵では、安土の柴田を援護することも、ましてや山崎の明智を討つことも不可能であるという冷酷な現実が。
「信孝様と信雄様の不和、さらには柴田殿への補給不能。……我らは、戦う前に盤面を奪われました。今、無理に動けば織田は霧散いたします」
安土を包囲している柴田勝家への補給は、信孝軍の飢餓と混乱を鎮めるため、事実上途絶えた。
長秀の諫言は、正論ゆえに信長の苛立ちを増幅させた。信長が最も信頼し、実務を任せてきた「米五郎左」の言葉でさえ、今の絶望的な状況を覆す術を持っていなかったのである。
信長は、自分がこの岐阜という巨大な檻に、音もなく閉じ込められたことを悟り始めていた。
七月十三日。近江・安土包囲陣。
安土の麓に陣を張る柴田勝家の本陣では、兵たちが空腹に耐えかねて軍馬を殺し始めていた。包囲陣を築いて半月、本来届くはずの岐阜からの補給は途絶えたままであった。
そこへ、北陸を守る佐々成政から「越後の景勝、神通川を越えて南進中」という絶望的な報せが届く。
「おのれ……安土の小僧を殺す前に、わしの根拠地が龍に呑まれるか……!」
勝家は血の涙を流しながら、安土からの撤退を命じた。信長を救うためではなく、自らの足場を守るための、不本意な敗走であった。
七月十五日。安土。
安土の瓦礫の上から、満福は北へ動き出した柴田軍の土煙を見つめていた。
「……勝家が動いたか。やはり岐阜ではなく、北陸へ帰る道を選んだな」
(当然の選択だ。奴にとって北陸を失うことは、織田家での死を意味する)
時任の声に、満福は冷酷な笑みで応えた。
「磯野、高虎。柴田の軍勢に気づかれないよう、北へ向け兵を出せ。奴らが、敦賀を通り過ぎ、越前へ足を踏み入れた瞬間に、敦賀を完全に占拠し、封鎖しろ。岐阜と分断させる」
磯野員昌が怪訝そうに問いかけた。
「殿、敦賀を塞いだとて、柴田が越前から美濃へ山越えで入る道はございましょう?」
時任が脳内で呟く。
(フン、地図に道があるからとて、一万を超える飢えた大軍が険峻な山越えをできる道理はない。越前と美濃の間には、「両白山地(加越山地)」が立ちふさがっているのだ。小荷駄(馬隊)が通れる道幅は無いのだ。組織的な兵站を失えば、軍は岐阜に着く前に自重で崩壊し、ただの野盗に成り下がる。
さらに致命的なのは情報の伝達だ。険しい山越えで伝令を送るには敦賀経由に比べ数日以上の遅れが生じる。戦場ではすでに死んだ情報に等しい。確かな命令も援軍の約束も届かぬまま、互いに『見捨てられた』という疑心暗鬼に陥れば、織田の結束は内側から腐り落ちる)
「磯野、大軍での山越えがどれほど困難か忘れたか。飢えた大群が険しい国境を越えれば、岐阜に着く頃にはただの敗残兵だ。敦賀さえ押さえれば、越前の柴田と美濃の信長は、互いに情報を送ることすらままならぬ」
満福は振り返り、家臣たちに次々と下知を飛ばした。
「その間に、わし達は近江、敦賀を堅固な土台にし、安土の復興を急ぐ。灰庵、貴様には改めて安土城と城下の整備を命じる」
「カカッ、承知いたしました。魔王の死骸の上に、より悍ましき城を築いて御覧に入れましょう」
灰庵が不敵に笑う。
「道実、貴様らには近江の内政を任せる。六助、貴様は甲賀にて軍事物資の生産を急がせよ」
「胃が痛いですが……やってみせましょう」
「はい、満福様! 虫も毒もたっぷり作りますよ!」
最後に、満福は冴衣を見つめた。
「冴衣。お前たち鵜飼一族には火薬の製造に加え、甲賀の特産品である『甲賀の緋色』と『甲賀の光沢』による銭儲けを命じる。戦を続けるには、金が必要だ」
「ん、わかった。長老たちをこき使って、火薬を製造し、あたしは、いや、石川左衛門になってがっぽり稼いでくるよ」
満福は再び北の空を睨んだ。
「勝家には北の小龍と泥沼の戦をしてもらう。……これで信長の力は、大きく削られたな」
浅井家が再生へ向けて力強く動き出した。




