第二十二話 越後小龍との盟約
天正十年七月三日。越後国、春日山城。
かつて上杉謙信が「義」の旗印を掲げた険峻なる山城の広間に、一人の若き武士が平伏していた。京極小法師高次である。
六月二十三日に安土を発った高次は、海路を北上し、越前・越中の沿岸をすり抜ける死の航海を経て、ようやくこの地に辿り着いた。その目には、安土で満福から託された「大役」への熱い決意が宿っている。
「……面を上げられよ、京極殿」
上座から響いたのは、低く、重厚な声であった。上杉家当主、上杉景勝である。その傍らには、若き才幹を漂わせる直江兼続が、剃刀のような鋭い視線を高次に注いでいた。
「名門・京極の嫡男が、わざわざこのような北の果てまで、いかなる御用か」
景勝の問いに、高次は居住まいを正し、淀みなく言葉を発した。
「景勝殿。単刀直入に申し上げます。今こそ越中へ兵を出し、織田の背後を衝いていただきたい。我ら浅井、および山崎の明智軍と呼応し、織田を討つ機は、今この時をおいて他にございませぬ」
兼続が口の端を歪め、冷ややかに笑った。
「安土の軍議でそのように決まったか。だが京極殿、話が良すぎる。我らが動けば、北陸を守る織田の重臣、佐々成政と前田利家が黙ってはおりますまい」
兼続の指摘は尤もであった。織田家最強の柴田勝家が安土へ向かったとはいえ、北陸には依然として富山城の佐々成政が一万二千、金沢の前田利家が八千の兵を擁し、鉄壁の防衛線を敷いている。
「……成政は神通川で我らを食い止め、利家は倶利伽羅峠を封鎖して一歩も通さぬ構えだ。この『蓋』をこじ開けるには、どれほどの血が流れるとお思いか」
兼続の追及に、高次は怯むことなく声を張り上げた。
「その『蓋』の向こう側、本来であれば上杉家が相手取らねばならぬはずの柴田勝家率いる織田の精鋭一万五千。……そのすべてを、今、我ら浅井が安土にて一身に引き受けております!」
高次の言葉に、景勝の眉が僅かに動いた。
「柴田勝家という織田最強の将が、越後ではなく近江に釘付けにされている。この千載一遇の好機を逃せば、再び織田が体勢を立て直し、北陸へ牙を剥くのは必定。……安土に勝家が留まっている今こそ、残された佐々と前田の喉元を掻き切るべきではありませんか!」
高次は懐から一通の書状を取り出した。満福が認めた、上杉への軍事同盟の提案書である。
「景勝殿。貴殿は『義』を重んじるお方だ。魚津城で散った兵の無念、そして織田に奪われた領土を奪還することこそ、今なすべき正義ではございませぬか」
景勝は沈黙した。広間を支配するのは、凍りつくような緊張感である。
(満福殿、私は貴殿の影に隠れているだけの子供じゃない。京極の看板、ここで使い切ってみせる!)
高次はさらに畳み掛けた。
「今や織田は安土を失い、近江を浅井に断たれ、上下を問わず浮き足立っております。勝家が近江に釘付けの今、景勝殿が動けば、佐々成政など手足をもがれたも同然。越中・能登の旧領、龍の旗印のもとに取り戻す好機、今をおいて他にございませぬ!」
景勝は傍らの兼続に視線を向けた。
「……兼続、如何に思う」
「……京極殿の仰せ、理に叶っております。柴田の援軍が絶たれているならば、佐々を撃破する好機。義を通し、利を得る道にございます」
景勝はゆっくりと頷き、高次をじっと見据えた。
「京極高次殿。……その覚悟、受け取った。織田信長が苦境に立たされている今、上杉は再び『義』の旗を北陸へ進める。成政を神通川の藻屑とし、失われし地を我が手に取り戻さん」
高次は深く、深く頭を下げた。
野良田と安土で満福が命がけで作り出した「勝家不在」という空白は、高次の手によって、柴田の背後を突き破る巨大な槍へと変貌したのである。
越後の小龍が、ついにその重い腰を上げた。
それは、安土で包囲網を築いていた柴田勝家にとって、自らの本国を失い、袋の鼠へと追い詰められる絶望の始まりを意味していた。




