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戦国昆虫戦記【変態飛翔】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第三章 天正十年の転換点

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第二十一話 安土防衛戦と、白粉(しらこ)の陣

天正十年六月二十七日、夕刻。


宇曽川の濁流から命からがら這い上がった柴田の軍勢は、泥にまみれた足を引きずりながら、ついに安土の麓へと到達した。


だが、魔王・織田信長が天下に誇った五層七重の絢爛な城郭は、すでにそこには存在しない。三年がかりで満福が仕込んだイエシロアリの食害と、爆薬による自重崩壊によって、安土城は見るも無残な瓦礫の山と化していた。


巨大な石垣は崩れ、黄金の柱はへし折れ、そのすべてが不気味な「白粉しらこ」――シロアリが木材を食い荒らしたフンと木屑の混ざった粉塵――に薄っすらと覆われている。


「……城の死骸を盾にするか。浅井の小僧め」

柴田は馬上からその異様な光景を睨みつけ、苦々しく呻いた。


瓦礫の隙間には、野良田から退却したはずの浅井軍一万二千の兵が身を潜め、槍の穂先を鈍く光らせている。


「親父殿! それがしに先陣を!」


泥にまみれ、兜すら濁流に飲まれて失った佐久間が、血走った目で懇願した。野良田での大敗、そしてかつて甲賀で味わった屈辱。鬼玄蕃の異名をとる猛将の自尊心は、すでに限界を超え、狂気すら孕んでいた。


「たかが瓦礫の山! あの小憎らしいガキの首、今度こそわしが捻り切ってご覧にいれまする!」


柴田は一瞬ためらったが、兵の士気を繋ぎ止めるためにも、無言で軍扇を振った。


「カカッ! さあ、柴田の猛将ども。足場の悪いこの泥沼で、存分に踊ってもらおうか!」


瓦礫の迷宮の防衛指揮を任された灰庵が、焼け焦げた柱の上で不敵に笑った。


怒声と共に、佐久間率いる先鋒部隊が瓦礫の斜面へと突撃を開始する。重い甲冑をまとった兵たちが、不安定な石と木材の山をよじ登り、陣形は瞬く間に乱れていった。


(……今だ。灰庵、やれ)

本陣から戦況を見下ろす満福の命が下る。


「崩せェッ!」

灰庵の号令と共に、斜面に潜んでいた浅井の兵たちが、支えとなっていた柱や石垣を一斉に突き崩した。


ズゴゴゴォッ!


地響きと共に瓦礫の斜面が雪崩を起こし、同時に、シロアリに芯まで食い荒らされたヒノキの成れの果て――大量の「白粉」が、巨大な煙幕となって爆発的に舞い上がった。


「ゲホッ、ゴホォッ!」「目が……前が見えぬッ!」


夏の湿気と熱気の中、気管や目に微細な粉塵を吸い込んだ佐久間の精鋭たちは、次々と激しくむせ返り、その場にうずくまった。完全に視界と呼吸を奪われた「粉塵地獄」である。そこへ、手拭いで口元を覆った浅井の兵たちが瓦礫の陰から姿を現し、地の利を活かして容赦なく槍を突き出していく。


「おのれ、おのれェ! 小細工ばかりを!」


泥と白粉にまみれ、佐久間が正気を失ったように瓦礫の斜面を駆け上がろうとした。その時である。


瓦礫の高所から、黒装束の佐助が小瓶を投げつけた。


あるじの命だ。再びあの羽音に震えろ」


割れた瓶から、むせ返るような強烈な臭いが放たれる。なけなしの『狂い汁』である。


続いて、『泥の筒』を崖下へ放り投げた。


「もう一丁贈り物だ! たっぷり喰らいな!」


パリンッ!

佐久間の足元で砕けた『泥の筒』から、無数のアブやカメムシが湧き出した。夏の暑さで凶暴化した不快昆虫たちは、またたく間に佐久間の顔や首筋、鎧の隙間へと群がっていく。


「ヒィィッ! 虫だ! また虫がァッ!」


かつて甲賀の森で味わった「糞尿と蜂の地獄」の記憶が、濁流のように佐久間の脳裏を駆け巡った。猛将の精神の糸が、完全にぷつりと切れた。


「いやだ、寄るな! わしは鬼玄蕃だぞォッ!」


佐久間は刀を放り出し、自らの顔を掻き毟りながら、瓦礫の上を無様に転げ落ちていった。先鋒部隊は完全に崩壊したのである。


「……退け! これ以上は無用だ!!」


その光景を見つめていた総大将・柴田の、苦渋に満ちた怒号が安土の空に響き渡った。


柴田の目は、狂気に駆られた佐久間ではなく、瓦礫の奥深くに潜む一万二千の浅井の兵たちを冷静に捉えていた。

(城壁こそないが、ここは天然の巨大な塹壕だ。平地ならばいざ知らず、この瓦礫の攻略は泥沼の消耗戦になる。しかも、野良田とこの攻城戦で、すでに三千は失った。もはや、力攻めは無理だ)


柴田にとっての、いや織田にとっての脅威は、浅井だけではない。京都・山崎に陣取る明智光秀、信濃を奪いし武田勝頼、北陸を征しようとする上杉景勝しかり。


ここで浅井の一万二千を無理押しして自軍をすり減らせば、周囲の獣どもに付け入る隙を与え、織田の命運は完全に尽きるのだ。


「浅井の小僧め……。ここでわしに兵を削らせ、明智や武田を利するつもりか。安い挑発には乗らんぞ」


老獪な軍神は、浅井の小僧が敷いた大局を見据えた深謀の恐ろしさを痛感しながら、ギリギリと歯を食いしばった。


「全軍、退け! 陣を下げ、安土を囲むように付城つけじろを築け! 奴らをこの瓦礫の山に封じ込めるのだ!」


柴田はついに力攻めを諦め、進軍を停止し、包囲網の構築へと切り替えた。


瓦礫の頂、白粉の煙幕が晴れゆく中で、満福は静かに扇子を閉じた。


(……勝ったな、満福。柴田の足を完全に止めたぞ)

脳内で時任が告げる。


(ああ。眼の前の猛将を討ち取るのではなく、安土に釘付けにする。これこそが、俺の欲しかった『時間』だ)


野良田での水攻めと、安土での粉塵地獄。この一連の防衛戦で稼ぎ出した「時間」と「膠着」こそが、のちに高次が上杉の地で結実させる工作と合わさり、織田を芯から腐らせる猛毒となるのである。


崩れ去った魔王の城跡で、若き王は静かに冷笑を浮かべた。


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