第二十話 聖地・野良田の再陣
天正十年六月二十七日。
刺すような初夏の陽射しが照りつける安土の陣幕に、黒装束の佐助が音もなく滑り込むように現れた。
「申し上げます。柴田率いる織田軍、総勢一万五千! すでに近江の国境を越え、安土へ向けて進軍中。先鋒に佐久間、その後方に柴田率いる本隊が続いております」
床几に深く腰掛けていた満福は、静かに目を開いた。瞳の奥には、焦りも恐れもない。ただ冷徹な盤面への計算だけが光っていた。
「来たか。……陣を敷くぞ。場所は安土より北へ三里。宇曽川を前方の盾とし、『野良田』にて迎え撃つ」
「野良田……!」
満福の傍らに控えていた老将・磯野が、ハッと息を呑んだ。歴戦の武将の分厚い胸板が震え、その双眸に熱いものが滲む。
野良田。それは二十二年前、満福の父である浅井長政がわずか十五歳で初陣を飾り、強大な六角の大軍を打ち破った場所である。浅井家が北近江の覇者として飛躍した「聖地」とも呼べるその戦場を、若君が自ら指定したのだ。
「わしが自ら本陣に立つ。磯野、付き合え」
「……御意ッ! 長政様、御覧じろ……! この老骨、長政様の御子と再びあの地に立てる事、武士の本懐にございます!」
磯野は感極まったように深く頭を垂れた。
(……野良田か。史実の長政が初陣で六角を破った因縁の地。だが満福、感情論で戦場を選んだわけではないだろうな。今の時期、宇曽川の水量はどうなっている?)
脳内で、時任の冷静な声が響く。
満福は内心で冷たく笑い返した。
(案ずるな、時任。そのために『仕掛け』は済ませてある)
出陣の号令が下り、陣が慌ただしく動く中、満福は密かに一人の女を呼んだ。冴衣である。
「冴衣。鵜飼一族の働き、見事であった。宇曽川上流の『堰』は万全か」
「うん。みんなでこっそり川を堰き止めて、おっきな水溜まりを作っておいたよ。残り少ない『焔硝(火薬)』も、一番いい所に仕掛けたから」
「よし。柴田の本隊が川の半ばに差し掛かった時、そのすべてを吹き飛ばせ。機の判断は、お前たちに一任する」
「任せて。派手に吹き飛ばしてあげるよ」
冴衣は気安く笑って頷くと、軽やかな足取りで鵜飼一族が潜む上流の山中へと姿を消した。
昼下がり。初夏の熱気が立ち込める野良田の平野にて、浅井軍一万二千と柴田軍一万五千が、宇曽川を挟んで対峙した。
川の対岸、浅井の馬印が風にはためく。その直下、本陣の床几に満福自らが陣取っている姿を認めた瞬間、先鋒の佐久間は限界まで目を見開き、血走らせた。
「浅井の小僧ォッ! 己の城に引きこもらず、のこのこ出てきたか! よくもわしを泥と糞尿にまみれさせてくれたな、今ここでその首を叩き落としてくれるわ!」
佐久間の脳裏に、甲賀の森で味わった屈辱が蘇る。あの耳障りなオオスズメバチの羽音、己の糞尿の悪臭、そして六角を裏で操っていたこの小僧への底知れぬ憎悪。
佐久間は、後方の柴田本隊の到着を待つという軍の定石すら忘れ、怒りに任せて宇曽川の浅瀬へと突入した。水飛沫を上げて、浅井の本陣へと一直線に殺到する先鋒部隊。
だが、その猪突猛進こそが、満福の周到に用意した「死地」の扉を開く鍵であった。
「……掛かったな。高虎、喜三郎。やれ」
満福が静かに扇子を下ろした瞬間、渡河を終えて勢いづく佐久間部隊の両側面から、突如として殺気が膨れ上がった。
東の背丈ほどある葦原からは高虎が、西の薄暗い森からは喜三郎が、それぞれ少数の遊撃部隊を率いて声もなく強襲する。
彼らの手にする刀の刃には、鈍く光る粘液がたっぷりと塗られていた。トビズムカデの顎肢から生きたまま抽出した毒液と、ハシリドコロの毒を配合した強烈な神経毒『百足毒』である。
「うぐァッ!?」
「な、なんだ……体が、痺れ……アアァッ!」
刀で手足に浅く斬りつけられただけの佐久間の兵たちが、次々と川原の泥に倒れ伏していく。刃傷そのものは命に関わらなくとも、傷口から侵入した百足毒が、火を吹くような激痛と急激な筋麻痺を引き起こすのだ。東の高虎、西の喜三郎による完璧なタイミングの挟撃と、未知の毒の前に、柴田が誇る先鋒部隊は反撃すらままならず、瞬く間に壊滅状態に陥った。
「ええい、佐久間の阿呆めが! 猪のように突出して無様に狩られおって!」
対岸でその有様を見ていた総大将・柴田は、激怒のあまり手にした軍扇をへし折った。
歴戦の勇士たる佐久間が、たかが少数の伏兵に手も足も出ずに崩されるなど、柴田の常識ではあり得ない事態であった。
だが次の瞬間、柴田はさらに目を疑う光景を目の当たりにする。
圧倒的な優位に立ち、先鋒を半殺しにしたにも関わらず、満福の本陣が、高虎と喜三郎の遊撃隊を伴って早々に安土の方角へ退却を始めたのである。
「先鋒を制したにも関わらず退くとは。馬鹿か、浅井の小僧は」
柴田の口の端が、歪な笑みの形に吊り上がった。
小賢しい罠と奇毒を用いる狡猾さはあっても、結局は戦の押し引きを知らぬ童の浅知恵。柴田はそう確信した。
「敵は臆したぞ! 全軍、一気に川を渡れ! わしが自ら、あの小僧を浅井の残党ごと踏み潰してくれるわ!」
地鳴りのような鬨の声と共に、一万の柴田本隊が宇曽川へ雪崩れ込む。
後退する満福たちの背後で、ただ一隊、川岸に踏み止まる部隊があった。
「殿は、この磯野がお引き受けいたす! 柴田の首魁ども、ここから先は一歩も通さん!」
磯野が精鋭を率いて立ち塞がり、渡河してくる柴田軍の巨大な圧力を一身に受け止めた。水しぶきが舞う中、老将の絶妙な槍捌きと死兵の覚悟が、押し寄せる柴田本隊の足を宇曽川の中央に釘付けにする。
――その絶好の瞬間を、はるか上流の崖上から、冴衣が冷徹な目で見下ろしていた。
「……柴田の本隊、川の真ん中まで来たね。磯野のおじいちゃんも、ちゃんと逃げ道に向かってる」
兵の密集度合いをじっくりと観察していた鵜飼一族の長の冴衣は、敵を最も深く「底」へ沈める完璧な瞬間を見定めた。彼女の手に握られた松明が、導火線へと投げ込まれる。
「今が頃合いだよ! みんな、火を放ちなっ!!」
ドォォォォンッ!!
上流から、腹の底を揺るがすような凄まじい爆発音が轟いた。鵜飼の者たちが仕掛けたなけなしの火薬が、強引にせき止めていた土砂と丸太の巨大な堰を、木端微塵に吹き飛ばす。
「な……水が……ッ!? 退け! 退けェッ!」
柴田の絶叫を掻き消すように、鉄砲水のごとき茶褐色の濁流が本隊に襲い掛かった。何日も堰き止められ、圧力を高めていた万トンの水が解放されたのだ。
身の丈を越える水の壁が、甲冑の重さに喘ぐ兵たちを容赦なく飲み込む。防御のための鉄の鎧は、濁流の中ではただ命を奪う重りと化し、柴田の精鋭たちは木の葉のように無残に押し流されていった。
轟音と悲鳴が野良田の空に響き渡る中、磯野の部隊はすでに水音を背に、絶妙な間合いで安土への撤退を完了していたのである。
数刻後。
濁流から辛うじて這い上がった柴田と佐久間は、泥まみれになりながらも生き残った兵をかき集めていた。先ほどまでの威容は見る影もなく、武具の多くが川の底に沈んでいる。
「おのれ、おのれ浅井ィィッ!! 体勢を整えよ! このまま安土へ向かう! あの小僧、絶対に生かしてはおかんぞ!!」
野良田で浅井長政の幻影と自然の猛威に打ちのめされた魔王の軍神は、誇りを傷つけられた復讐の鬼と化して、満福の待つ瓦礫の安土へと泥まみれの歩みを進めた。




