第二十八話 遠心分離の黄金
安土・仮本陣。
「……新婚早々、夫に忘れ去られた女の悲しみ、お主に分かりますこと?」
その言葉と絶対的な冷気を残し、京極の叔母上は陣幕から去っていった。
満福は、夏の湿った熱気の中で、滝のような冷や汗を流しながら床几にへたり込んでいた。
周辺敵国に対抗すべく戦術の構築と領地経営に全てを注いだ二ヶ月間。お照とお静の存在を完全に忘却していた代償。
明日にも高虎や喜三郎が甲賀へ迎えに発ち、泣き崩れる姫たちと共に叔母上の底なしの説教が始まる。想像しただけで、数万の織田軍に包囲されるよりも確実な「死」の気配が満福の首筋を撫でた。
「……明日出発だと? 冗談ではない、わしが心労で死ぬ! 今すぐ止めねば!」
満福は弾かれたように立ち上がり、叔母上が滞在している陣屋の一室へと走った。
* * *
「……十日、ですの?」
不機嫌そうに眉をひそめる叔母上の前で、満福は畳に額を擦り付けていた。
「は、はい! 寂しい思いをさせた二人の姫、そして叔母上への、浅井当主としての最高の『詫びの品』を用意いたしまする! それが用意できるまで、どうか高虎たちの出発を十日……いや、半月! お待ちいただきたく!」
あまりの必死な剣幕に、叔母上は軽く溜息をついた。
「……よろしい。そこまで申すなら、十日だけ待ちましょう。ですが、その品がわたくしたちを満足させられぬ代物であった時は……朝から晩まで夫の務めというものを叩き直して差し上げますわ」
* * *
(時任! 助けてくれ! 十日だ! 十日で叔母上たちを黙らせる、何か圧倒的な価値のあるものを出せ!)
自室に逃げ帰った満福は、床に転がりながら脳内の同居人に泣きついた。
(……やれやれ。自業自得とはいえ、あの女王の圧力を放置すれば、お前の精神が崩壊しかねないな)
脳内の時任の声は、相変わらず冷徹で他人事であった。
(……時代を問わず、人間の脳を最も強烈に刺激する物質がある。高純度の糖分だ。この時代の粗悪な水飴や、南蛮渡来の希少な砂糖を超える、極上の『蜂蜜』を作れ)
「蜂蜜だと? あの、山で木こりが蜂に刺されながら採ってくる、濁った泥のような蜜か? あんなもので叔母上が喜ぶわけが……」
(だから、昭和の技術を使う。お前には六助という、虫の使役に関する特異な才能を持つ手駒がいるだろう。……教えるのは『巣枠式巣箱』と『遠心分離機』の構造だ)
「待て! 虫!? 蜂だと!? 断る、絶対に嫌だ!」
満福の全身の産毛が逆立った。
(黙って受け入れろ。この時代の養蜂は、丸太の洞に蜂を住ませ、秋に巣ごと叩き潰して搾るから不純物が混ざる。俺が教えるのは、木枠に六角形のハニカム構造を作らせ、蜜が溜まった枠だけを取り出して、遠心力で蜜のみを振り飛ばす技術だ。これなら蜂を殺さず、極めて透明で純度の高い黄金の蜜が手に入る)
「ぐ……っ、がああああぁぁぁっ!」
突如、満福の胃の腑を、雑巾のように固く絞り上げられる激痛が襲った。
時任の持つ「ニホンミツバチの生態圏、分蜂の制御、蜜胃における酵素分解」という高度な生物学知識、その久方振りの代償――内臓が焼け付くような極度の空腹感と痙攣である。
「あ、が……腹が……胃が溶ける……!」
満福は畳を掻きむしり、脂汗を流しながら悶絶した。脳裏には、彼が最も嫌悪する数万匹の蜂が蠢く地獄絵図が、精緻な木箱の図面と共に焼き付けられていく。
「誰か……飯を! それと六助を呼べ! 大至急だ!」
* * *
半刻後。握り飯を五つほど胃に流し込み、ようやく痙攣の治まった満福は、荒い息を吐きながら図面を書き終えた。
「……よし。時任、この箱を作って蜂を飼えば、あの透き通った蜜が手に入るのだな。これで十日後には……」
(……何を言っているんだ、お前は)
時任の氷のような声が、満福の思考を止めた。
(蜂が花の蜜を集め、巣の中で羽ばたいて水分を飛ばし、糖度を高めて『蜂蜜』として完成させるには、最低でも数ヶ月から半年かかる。十日など、物理的・生物学的に絶対に不可能だ)
「…………は?」
満福の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「な、なぜそれを先に言わぬ!! わしは叔母上に『十日待ってくれ』と大見得を切ってしまったのだぞ!!」
(俺に相談する前に、お前が勝手に日数を叫んで逃げ帰ってきたのだろう。俺の知ったことではない)
「おのれ時任ァァッ! わしを殺す気か!」
満福が絶望に頭を抱え、畳に突っ伏したその時である。
「殿! 呼ばれて参りました! 次はどこに毒虫を撒きますか!」
部屋に飛び込んできたのは、満面に笑みを浮かべた六助であった。
満福は幽鬼のような顔で顔を上げ、震える手で木箱と樽のような機械(遠心分離機)の図面を差し出した。そして、十日以内に極上の蜂蜜を用意しなければならないという絶望的な状況を、絞り出すように説明した。
図面を見た六助は、目をキラキラと輝かせた。
「なんだ! そんなの簡単じゃないですか、殿!」
「……簡単? お主、蜂が蜜を溜めるには数ヶ月かかるのだぞ?」
「一から集めさせるから時間がかかるんです! おいら、鈴鹿の山奥に、野生のミツバチが何年もかけて蜜をたっぷり溜め込んでる『バカでかい巣』を三つほど知ってます! それを煙で燻して蜂を追い出し、巣板ごと丸ごと引っぺがして奪ってくるんです!」
(……強奪か。なるほど、使えるかもしれんな)
脳内で時任が感心したようにつぶやいた。
(すでに濃縮が終わっている野生の巣板をこの『遠心分離機』にかければ、すぐに極上の蜜が抽出できる。追い出した蜂どもは、新しい『巣枠式巣箱』に女王蜂ごと放り込んで餌付けすれば、来年以降の養蜂にそのまま使える)
満福は幽鬼のような顔で顔を上げ、震える手で樽のような機械の図面を指し示した。
「……六助、よう聞け。お前が採ってきた巣板を、この樽のような『遠心分離機』という器に据える。取っ手を回して高速で回転させれば、遠心力で蜜だけが外へと弾き飛ばされる。従来の、巣ごと握り潰して搾る方法とは違う。幼虫の死骸も泥も混じらぬ、透き通った黄金の蜜だけを引き出せるという寸法だ」
「蜂を殺さず、蜜だけを弾き飛ばす……。そんな魔法みたいなことができるんですか!」
六助は身を乗り出し、食い入るように図面を見つめた。
「すごいです!満福様!おいら、さっそく山へ行って、巣を全部ひっぺがしてきますよ!」
六助は図面を懐にねじ込むと、歓喜の声を上げて飛び出していった。
「……待て六助! わしの視界に一匹でも羽虫を入れたら、お主の首を刎ねるからな! 絶対に山奥でやれぇ!」
満福の悲痛な叫びは、少年の弾む足音に掻き消された。
戦国武将たちを盤上で弄ぶ知略の少年は、自身の失言と、生理的嫌悪の対象である大量の蜂という怪物を前に、ただ胃を押さえてうずくまることしかできなかった。
【時任昆虫教室:其の二十七 ― 黄金の錬金術師・ニホンミツバチ ―】
万福丸、羽虫に怯えて胃を押さえるな。この職人たちは完璧な社会制度で、お前を救う黄金を練り上げている。
■濃縮の理(羽ばたきの蒸発)
花の蜜を蜜胃の酵素で分解し、数千匹の送風で水分を飛ばす。糖度が八十度近くに達して初めて「腐らぬ蜂蜜」となる。この執念深い工程を十日でやれと言ったお前の無知には呆れる。
■防衛の理(熱殺の蜂球)
天敵オオスズメバチを数百匹で包み、一斉に発熱して四十六度の球体(熱殺蜂球)を作る。己の限界温度の数度手前で敵を蒸し殺す集団防衛だ。遠心分離機は、この成果を壊さず掠め取る搾取器に過ぎん。
六助の強奪に感謝し、圧倒的な甘味で女王を懐柔するんだな。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




