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戦国昆虫戦記【変態飛翔】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第二章 割れる天下

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第十七話 四面楚歌の岐阜城

天正十年(一五八二年)六月二十日 美濃国・岐阜城。


安土城崩落という悪夢を背に岐阜へと逃げ込んだ織田信長は、苛立ちの中で軍勢の再編を急がせていた。


五日前、北陸から強行軍で引き返してきた柴田勝家が、二万の精鋭と共に無事岐阜へ到着したことは、信長にとって唯一の救いであった。強固な矛たる柴田軍が本陣を固めたことで、ひとまずは明智や浅井の急襲を防ぐ態勢が整ったのである。


だが、美濃・尾張の国衆たちの動きはひどく鈍かった。神の居城であった安土が消滅し、信長が命からがら逃げ帰ってきたという現実は、彼らの骨の髄まで染み付いていた「絶対的な恐怖」を確実に薄れさせていた。


さらに信長たちの苛立ちに油を注いでいたのが、上方へ放っていた忍びからもたらされていた凶報であった。


去る六月十三日、山崎の地にて羽柴軍三万と明智軍が激突。しかし羽柴軍は圧倒的な大軍でありながら明智を打ち破れず、一万近い異常な死傷者を出して摂津へと退いたというのだ。


しかも、明智の背後には近江の「浅井」――すなわち、あの満福がついていた。天王山に陣取った浅井軍は、おびただしい数の蜂や這う虫を操るおぞましい奇策を用い、羽柴の大軍を内側から崩壊させたという。


(おのれ、浅井の小僧め……! わしの安土を崩落させただけでは飽き足らず、光秀と結託してこの信長の道を塞ぐというのか!)


ただの亡霊だと思っていた浅井の遺児が、今や明智という壁を盾にし、三万の大軍すら退ける巨大な脅威となって立ちはだかっている。その報告を受けた日から、岐阜城には信長と勝家の底知れぬ怒りと焦燥が渦巻いていた。


そんな極限の緊張の中、西の摂津国に留まっている羽柴秀吉からの急使が到着した。


届けられたのは、堺の豪商たちから掻き集められたであろう莫大な金銀や名物の「お見舞い」の品々と、長々とした書状である。

書状を読み進める信長の顔が、みるみるうちに夜叉の如き朱色に染まっていく。


「……猿め。山崎にて逆賊・光秀を討ち漏らしたばかりか、毛利と明智の東進を防ぐため、やむなく摂津(大坂)に留まり『西の盾』となるだと……? しかも……」


信長はわななく手で書状を握り潰した。

「我が息子の信孝と一万四千の軍勢を、『上様の御守りのため』と称して大和・伊勢回りの大回りの道筋で

でこちらへ向かわせただと!?」


「なんと!」傍らに控える柴田勝家が床几を蹴り飛ばして立ち上がった。


「伊賀を避けた南回りの山越えなど、大軍であれば優に半月以上はかかりますぞ! 筑前の奴、上様の一大事に身内を体よく追い払い、大坂の地を己の物としてかすめ取るつもりか!」


「ええい、見え透いた詭弁を弄しおって! 貢物などで誤魔化せると思うたか!」

信長は金銀の詰まった箱を力任せに蹴り飛ばした。


秀吉が動かない以上、京の明智と近江の浅井を東西から挟み撃ちにする策は完全に頓挫した。信長自身も心の底で理解していた。もはや自分の威光が、あの狡猾な猿を縛り付けるだけの絶対的な力を失いつつあることを。


(……良い。秀吉が動かなくとも、わしにはまだ東国からの援軍がある)


信長は、荒い息を吐きながら東の空を睨んだ。信長は、東国からの援軍を渇望していた。信濃を抑える滝川一益の軍勢が美濃へ合流すれば、再び天下に号令する軍事力を取り戻せる。そう信じて疑わなかった。


そこへ、一人の男が広間に引きずり込まれるようにして現れた。

「……一益か」

信長は床几から立ち上がり、絶句した。

広間の床に崩れ落ちた初老の男は、かつて「進むも退くも滝川」と謳われた最強の宿老の面影を微塵も残していなかった。

豪奢な甲冑は失われ、血と泥に塗れた小袖は破れ果てている。

髪は振り乱れ、頬は落ち窪み、その目は飢えた野犬のように虚ろであった。数名の供回りのみを残し、木曾の険しい山道を、地を這うように逃げ延びてきた惨めな敗残兵の姿がそこにあった。


「上様……」

一益はひび割れた声で呻き、床に額を擦り付けた。


「申し訳……ござらぬ……。東国の兵、数万……ことごとく散り散りとなり、失われました。武田が……勝頼が蜂起し、信州は……もはや、奴らの手に……」


その血を吐くような嗚咽を聞いた瞬間、信長の中に辛うじて残っていた「覇王の支柱」が、音を立ててへし折れた。


「勝頼め……! 春の甲州征伐にて討ち漏らしたとはいえ、もはや虫の息であったはず。それがこの機に乗じて完全に息を吹き返し、わしに牙を剥いたというのか……!」


信長が虚空を見つめ、力なく床几に崩れ落ちる。

東の領土はすべて消滅した。もはや、背後を守る防壁も、反撃のための大軍も存在しない。


「まさか……」勝家の顔からも血の気が引いた。


「滝川殿の東国が消滅したということは、わしが主力を引き抜いて空にしてしまった北陸も、上杉景勝の猛攻を受けて落ちるかもしれぬ……」


西の大坂では秀吉が独立の牙を研ぎ、中央では明智と浅井が道を塞ぎ、東からは亡霊たる武田勝頼の軍勢が迫る。

そして北陸は上杉に飲み込まれようとしている。


絶対的であったはずの魔王の版図は、いまや四方を敵に囲まれ、信長自身を閉じ込める孤絶の牢獄と化していた。一益の消え入るような慟哭が、孤立無援の岐阜城に響き渡る。


     * * *


一方、恐怖と絶望の喧騒に包まれる岐阜城の奥御殿。

その片隅の薄暗い部屋に、ただ一人、場違いなほどの静寂と歓喜に身を震わせている女性がいた。

信長の妹であり、かつて浅井長政に嫁いだ絶世の美女、お市の方である。


「……そうですか。安土を崩落させ、あの羽柴秀吉を山崎で退けたのは、万福丸……あの子なのですね」


お市は、忍び込んできた侍女からの密報を聞き終えると、伏せていた面を上げた。その顔には、狂おしいほどの美しく、柔らかな微笑みが咲き誇っていた。

かつて小谷城が落ちたあの日、一人「泥の道」へと下っていった幼い息子。彼が甲賀の山奥で生き延びていることは、密かに遣わされた「六助」という童を通じて、すでに知っていた。

六助が証として持ち込んだ「かんざし」と「赤い染料」を受け取った日、お市は涙を流して喜び、返礼として自身の温もりの匂いが染み付いた伽羅の香袋を託したのだ。


(長政様……。万福丸は、ただ泥の中で隠れ潜んでいたのではありません。あの恐ろしい兄上の喉元をついに食い破り、天下の盤面へその身を現すほどの武将になりましたよ)


広間のほうから聞こえてくる、兄が築き上げた覇権が音を立てて崩れ落ちる悲鳴は、お市にとって、愛する息子の凱旋を告げる力強い産声に他ならなかった。

お市は胸の前でそっと手を組み、目を閉じる。


熱い涙をひとすじ流しながら、再興された「三つ盛り亀甲に花菱」の未来へ、彼女は静かに密かな祈りを捧げていた。


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