第十六話 猿の独立
天正十年(一五八二年)六月十五日、摂津国。
山崎での凄惨な消耗戦を経て、京から西へ退いた羽柴秀吉の軍勢は、摂津に陣を敷いていた。
雨上がりの湿った風が吹き抜ける陣屋の片隅で、二人の若武者が井戸端に座り込み、無言で甲冑の泥を洗い落としていた。加藤虎之助清正と、福島市松正則である。
彼らの顔には、猛将としての闘志よりも、得体の知れない恐怖と疲労が色濃く刻まれていた。甲冑の隙間には、泥に塗れたウシアブやカメムシの死骸がびっしりとこびりつき、異様な腐臭を放っている。
「……くそっ。何度洗っても、この泥と虫の臭いが落ちねえ」
正則が、苛立たしげに柄杓を井戸の縁に叩きつけた。
「明智のハゲ頭の首、あと一歩で手が届くところだったんだぞ。なんで退かなきゃならなかったんだ!」
「喚くな、市松。……お前も肌で感じたはずだ」
清正が、血走った目で低く唸った。
「あれは、武士の戦じゃなかった。どこからともなく湧き出す蜂の群れ、上から降り注ぐ泥と這う虫、そして間断なく肉を抉る凶悪な鉄砲の雨。明智の兵はどうという事はなかったが……あの山頂に陣取っていた浅井の部隊は、異常だった」
二人の背筋に、冷たいものが走る。
数と力で押し潰せるはずの大軍が、得体の知れない罠と狂気によって内側から崩壊していく光景。それは、彼らがこれまで経験してきた「名乗りを上げて槍を交える戦」とは次元の違う地獄であった。
少し離れた幕の内側で、その会話を静かに聞いていた男がいた。羽柴秀吉である。
秀吉は、泥に塗れた爪をガリガリと噛みながら、血走った目で軍師・黒田官兵衛を睨み据えていた。
「……聞いたか、官兵衛。山崎の地獄絵図を描いたのは、光秀ではない。あの小賢しい、浅井長政の忘れ形見だ。あのような悍ましい盤面を描く化け物が、明智の背後に潜んでいたとはな」
秀吉の体は、怒りとも恐怖ともつかない感情で微かに震えていた。
無理もない。安土崩落と信長の岐阜逃亡を知った際、秀吉は「光秀を討った功績で、織田家内の力関係をひっくり返す」という完璧な青写真を描いていたのだ。信長を生かしたまま内部から権力を食い尽くすという、壮大な簒奪の道筋である。
だが、山崎での「痛み分け」により、光秀の首を取り逃がしたことで、その前提は完全に崩れ去った。
「官兵衛……わしは、どうすればよい? 光秀を討ち漏らした今、岐阜に居られる上様に、何と申し開きをすればよいのだ!」
秀吉は頭を抱えた。権威の象徴であった安土を失い、命からがら岐阜へ逃げ込んだ信長は、今や疑心暗鬼の塊と化しているはずである。
「殿。……決して、岐阜へ向かってはなりませぬ」
官兵衛は、感情を完全に排した冷徹な声で告げた。
「手負いの獣となった上様に、殿の敗退を許容する度量は残っておりませぬ。召喚に応じれば、腹を切らされるか、首を刎ねられるのが関の山にございます」
「だが、わしにはまだ二万の兵が残っておる! 対する明智も、山崎での激戦で大きく兵をすり減らし、一万ほどのはずだ。数では圧倒的に勝っているのだぞ! 今からでも全軍で京へ取って返し、力尽くで光秀の首をもいでくれば……!」
「なりませぬ!」
官兵衛の鋭い一喝が、秀吉の焦燥を切り裂いた。
「攻めれば勝てましょう。だが、その背後にいる『浅井』という不気味な底なし沼に、再び足を取られます。無用な消耗戦は避けるべきです。それに……明智は今、近江の浅井と共に、柴田の大軍を待つ織田に備えるはずです。我らを追撃する余力など、一切ありませぬ」
官兵衛は、手元の地図の「京」の部分を指先でトントンと叩いた。
「対明智の策は、一つ。……『今は放置』にございます」
「放置だと?」
「ええ。我らの真の敵は、もはや明智ではありませぬ。光秀にはあえて京に居座らせ、東の織田軍と潰し合わせる『防波堤』として利用するのです。我らがこれ以上血を流す必要など、どこにもございませぬ」
その冷徹な合理性に、秀吉はハッと息を呑み、そして徐々にその顔に本来の狡猾な光を取り戻していった。
「……なるほど。東の脅威は、明智と浅井に押し付けるというわけか。だが官兵衛よ、我が陣中には、上様の三男・信孝様の一万四千がいる。彼らがいる限り、わしは『織田の将』として動かざるを得んぞ」
「厄介払いをいたしましょう」
官兵衛の唇が、三日月のように吊り上がった。
* * *
その日の午後。
秀吉は、陣屋の最奥に織田信孝を招き入れ、平伏して涙を流してみせた。
「信孝様……! 申し訳ござらぬ。この藤吉郎の力不足ゆえ、山崎にて逆賊の首を討ち漏らしました。安土を失い、岐阜で心細くされておられる上様を思えば、胸が張り裂けそうにござる!」
「泣くでない、筑前。勝敗は兵家の常よ。なればこそ、直ちに軍を立て直し、共に岐阜の父上の元へ……」
「なりませぬ!」
秀吉が芝居がかった手振りで制止すると、傍らの官兵衛が進み出た。
「信孝様。上様の御守りには、実の息子であられる信孝様が向かわれるのが最上の忠義。しかし、我ら羽柴軍まで東へ向かえば、背後の毛利が息を吹き返し、京の明智と結託して、上様の待つ東へ雪崩れ込む恐れがございます。我らはやむなくこの摂津に留まり、西の『盾』となりまする」
「……むう。筑前が西の盾となるなら、心強いが。しかし、余が岐阜へ向かうにも、京も近江も塞がっておろう」
「ご案じなされますな」
官兵衛が、恭しく地図を広げる。
「堺の商人たちから得た情報によれば、あの家康殿ですら伊賀・甲賀の山を越えられず、海へ逃げたとのこと。浅井の恐怖に支配された死地を通る愚は犯せませぬ。どうか大和の筒井領を抜け、伊賀を南へ大きく避け、初瀬街道から伊勢へと抜ける遠路をお通りくだされ。伊勢に出れば、信雄様のお膝元。安全に岐阜へお戻りになれます」
信孝は、官兵衛の提示した途方もなく遠回りの行軍路に一瞬顔を顰めたが、「父の危機を救うため」という大義名分と、「安全策」という甘言に抗うことはできなかった。
「……相分かった。余は一万四千を率いて、大和経由で岐阜を目指す!」
* * *
数万の兵が泥濘を蹴立てて南へ去っていくのを、秀吉は小高い丘の上から冷ややかな目で見送っていた。
伊賀を避ける大迂回ルートでの行軍は、優に数週間を無駄にする。信孝が岐阜へ辿り着く頃には、秀吉の足場作りは完全に終わっているはずだ。
「……行ったな」
秀吉は、被っていた編み笠を乱暴に放り捨てた。その顔からは、織田家への忠義を誓う「人懐っこい猿」の仮面が完全に剥がれ落ちていた。
「直ちに上様へ書状を送れ。『毛利と明智の東進を防ぐため、やむなく摂津にて西の防波堤となります』とな。……これで、堂々と召喚を拒絶できる」
秀吉は、深く息を吸い込み、西の空を睨みつけた。
「内部からの乗っ取りは諦める。……ならば、わしは外から天下を切り取るしかあるまい」
「殿。いよいよ、独自の覇道へ歩み出されますか」
官兵衛が、その野心に呼応するように深く頭を下げた。「なれば、我らの足場となる『本拠』を定めねばなりませぬ」
「決まっておろうが」
秀吉の目が、ギラギラとした欲望の光を放つ。
「京と海を繋ぐ要衝……かつて信長様を十年苦しめた、大坂(石山本願寺跡)よ。浅井の小僧が近江に籠もり、琵琶湖の水運を握るというなら、わしは海と堺の財力を丸ごと飲み込んでやる。あの焼け跡に、安土を凌ぐ途方もない巨城を築き上げるのだ」
「御意。大坂を基盤に、毛利を牽制しつつ力を蓄え、東で信長と明智、浅井が共食いするのを待つ……。これぞ天下人の盤面にございます」
「わしはもう、誰の顔色も窺わん。……天下は、この秀吉が回す!」
泥と血に塗れた山崎の敗退から数日。
羽柴秀吉は、織田の呪縛から完全に解き放たれ、大坂の地で新たなる巨大な怪物として産声を上げようとしていた。
西に秀吉、東に信長、そして中央に明智と浅井。
日ノ本の覇権を巡る狂気の乱世が、ここに極まろうとしていた。




