第十五話 近江平定の幕開け
天正十年(一五八二年)六月十五日、夜。
京の郊外に設けた浅井の仮陣所に、佐助が音もなく姿を現した。
「殿。北陸方面に放っていた者より、柴田勝家の動向が判明いたしました」
「……そうか。あの猪武者は今、どこにいる」
満福の問いに、佐助は淡々と事実を並べた。
「魚津を落とした直後に軍を三分割し、二万の精鋭と共に北国街道を不眠不休で南下しておりました。しかし、越前と近江の国境付近へと差し掛かったところで、安土崩落と信長公の岐阜逃亡の報に接したようです。そこで明智討伐を諦め、近江へは深く入らず、全軍の進路を東へ変え、主君を救うべく一直線に美濃へ向かいました。今頃は既に、不破の関を越え岐阜城に入っているはずかと」
満福の隣で地図を広げていた軍師・灰庵が、腹の底から楽しそうに笑った。
「カカカ! 流石は織田の筆頭宿老。逆賊の首よりも、主君の御守りを最優先して一直線に美濃へ急いだか。……己の背後が、完全に無防備になるとも知らずにな!」
満福は小さく息を吐き、脳内の時任と意識を共有した。
(柴田の二万が美濃へ収束したか。……柴田が進路を東へ取ってくれたおかげで、我らが制圧すべき近江一帯は、奴の大軍に踏み荒らされることもなく、ぽっかりと空白地帯になったわけだ)
満福はゆっくりと立ち上がり、陣所に集めた家臣たち――道実、佐吉、磯野、高虎、喜三郎、冴衣、六助、そして京極の叔母上を見渡した。その瞳には、野心に満ちた冷たい光が宿っていた。
「……好機だな。柴田という巨大な嵐が逸れてくれた今、近江に残っているのは、主を失い、浮き足立つ国衆たちのみだ」
満福は、卓上の地図の『安土』を短刀で力強く突き刺した。
「皆、よく聞け。これより我らは京を立ち、本拠を『安土』へと移す。織田の象徴であったあの地を我ら浅井の根城とし、近江一帯を完全に塗り替えるぞ!」
家臣たちの間に、総毛立つような熱気が走る。満福は、山崎の戦いで摩耗した軍を立て直すための、軍事と内政の両面にわたる苛烈な「近江平定策」を口にする。
「磯野、高虎、喜三郎。山崎の戦いで、我らの軍勢が大きく傷ついたのは知っておる。しかし、もう一踏ん張りして欲しい。京の統治は同盟を結んだ明智に任せ、我らは全軍で安土へ向かう。その道中、南近江に残存する織田の旧臣や守備隊の砦を次々と叩き潰せ。安土の崩壊で指揮系統を失った烏合の衆だ、恐れるに足らん」
満福は地図上の南近江を指差した。
「力でねじ伏せ、恭順する者は兵として吸収しろ。我らの毀損した戦力を、敵の肉で補うのだ」
「ははっ! 蹴散らした端から浅井の旗に組み込んで御覧に入れまする!」
血気盛んな磯野が猛々しい笑みを浮かべ、喜三郎も「殿の道を阻む者、この長槍でことごとく薙ぎ払いましょうぞ!」と平伏した。
「そして北近江についてだが……叔母上、お力をお借りしたい」
満福が視線を向けると、床几に優雅に腰掛けた京極の叔母上が、扇子を静かに閉じた。
「北の国衆どもですね。ええ、任せなさい。私の名と『四つ目結』の紋を入れた書状をばら撒いてあげましょう。山崎での戦勝を聞き、さらに柴田軍が近江を素通りして美濃へ去ったと知れば、あの風見鶏どもは血相を変えて京極の前に平伏すはず。無駄な血を流す手間が省けますよ」
武断の策を授けた後、満福の視線は陣所の後方に控える者たちへと移った。
「軍を動かすには血と肉……すなわち物資と強固な地盤が要る。道実、佐吉」
「はっ」
「お前たち二人に、近江全体の内政を任せる。荒れた田畑の復旧と兵站の再構築を急げ。力で従わせた民から搾り取るだけでは長続きせぬ。織田の恐怖支配より、我ら浅井の理にかなった統治の方が生きやすいと、領民の骨の髄まで叩き込め」
「御意にございます。算段は既に立てております」
道実と佐吉が、頼もしく深く頭を下げる。
「六助」
「はいっ、殿!」
「お前は甲賀の里と連携し、虫を利用した戦術兵器の製造を急げ。オオスズメバチを操る『狂い汁』、辺り一体を這う虫の地獄に変える『泥の筒』、そして広域凶作爆弾の『泥の羽音』だ。今後、大軍を迎え撃つ際にも、必ず我らの牙となる」
「任せてよ! おいらの可愛い虫たちを、うんと増やして凶暴にしておくからね!」
「それから、冴衣」
腕を組んで壁にもたれていた冴衣が、視線だけで応える。
「お前は鵜飼の一族を動かし、火薬の製造を急がせろ。虫の罠で足止めした敵を確実に削り取るには、鉄砲の数が勝敗を分ける。一粒でも多く、火薬と鉛玉をかき集めろ」
「……やれやれ、人使いの荒い殿様だね。分かったよ、一族の連中の尻を叩いておく」
冴衣が不敵に笑い、請け負った。
軍事、内政、兵站。満福の淀みない指示によって、浅井家という新たな歯車が、凄まじい熱を帯びて回り始めた。
* * *
数日後。
南近江を力でねじ伏せ、北近江を名門の威光で従わせた浅井の全軍は、琵琶湖の東岸へと辿り着いた。
満福の目の前に広がっていたのは、天下人の象徴として天を突いていた巨城の、無残な残骸であった。
イエシロアリに芯まで食い荒らされた黄金の柱は塵灰となり、山肌を白く染めている。かつて五層七重を誇った天主は粉々に砕け散り、黒く焦げた瓦礫の山となって横たわっていた。だが、剥き出しになった巨大な石垣だけは、異様な威圧感をもってそこに残されていた。
「……ひどい有様だな」
満福は馬から降り、雪のように積もった白い木粉を拾い上げた。
(時任。現状、我らの総兵力はどれほどだ? 京の守りを明智に押し付け、かき集められるだけの兵をこの安土に引き連れてきたが)
脳内の時任が、冷静な分析結果を告げる。
(浅井本体四千は、山崎の激戦で半減し、二千。
南近江での降兵吸収が、三千。合流した京極勢五千のうち、激戦による損耗を除くと、四千。……現在の浅井の総兵力は、約九千だ。叔母上の呼びかけに応じた国衆たちが、それぞれの領地で動員を開始しているので、もう少し上積みが期待できる。最終的な浅井の総兵力は一万二千程度に達すると予想できる)
(一万二千か。……東の信長と柴田の二万と比べるとまだ心許ない数だな)
(ああ、無理やりかき集めたせいで兵の質もバラバラだ。だが満福。安土の石垣を要塞化し、巨大な城郭を築くための人足としては十分だ。信長が美濃で再編を終えるまでに、「浅井の兵」として叩き直す必要がある)
満福は、瓦礫の山の上に浅井の「三つ盛り亀甲に花菱」の旗が翻るのを見上げた。
そして、傍らに控える灰庵へ向き直った。
「灰庵。お前には、この安土の再建を命じる」
「ただ元の城を建てるだけではござらんのでしょうな?」
灰庵が目を細め、好戦的な笑みを浮かべる。
「無論だ。この巨大な石垣を土台とし、我らが生き残るための『地獄の牙城』を造り直せ。そして、ただ山の上に砦を築くだけの愚は犯すな。琵琶湖と直接水路を繋ぎ、水運を城の奥底まで引き入れろ。有事の際の物資輸送、そして万が一の退路となる生命線だ」
満福は、瓦礫の隙間から眼下に広がる広大な琵琶湖を指差した。
「さらに、城下町を再整備し、甲賀の物流網と完全に結びつけろ。兵站の動脈たる銭と物資が、途切れることなくこの安土へ流れ込む巨大な町を創り上げるのだ」
「カカカ……! 湖の利を飲み込み、泥と水で敵を絡め取る無敵の要塞都市……! この灰庵、腕が鳴りますな、殿!」
槌の音と、土を掘り返す人足たちの声が、地鳴りのように響き始めた。
西に秀吉、東に信長が控える狂気の乱世。その激流のど真ん中で、浅井家再興の舞台は、いま、安土の地へと完全に移されたのである。




