第十三話 山崎の戦い 決着
天正十年(一五八二年)六月十三日、夕刻。
山崎の空を覆っていた重い雨雲が、ようやくその隙間を広げた。泥に塗れた天王山の斜面には、傾きかけた西日が血のような赤光を投げかけている。
数十の法螺貝の音が、淀川の川面を震わせながら、地鳴りのような威圧感を伴って戦場を包み込んだ。
京へと続く街道から、泥濘を蹴り立てて姿を現したのは、整然と隊列を組んだ五千の軍勢であった。その先頭で翻る旗印――京極家の「四つ目結」の紋を見た瞬間、満福は肺に溜まっていた熱い空気を一気に吐き出した。
(……来た。京極の加勢だ)
満福は、本陣の床幾に手をつき、身を乗り出した。街道を埋め尽くす五千の兵。その先頭を行く将の姿を、泥に霞む視界の中で必死に追う。
(……叔父上の高吉殿か? それとも、高次たちか)
当然の予想であった。一軍を率い、この地獄のような戦場に乗り込んでくるのは、名門・京極家の当主である叔父か、あるいは血気盛んなその息子たちであるはずだ。
しかし、馬群の先頭から躍り出た一騎の姿を捉えた瞬間、満福は思考が止まるほどの衝撃を受けた。
豪奢な当世具足を纏い、手にした長薙刀を悠然と構えるその姿。戦場の泥汚れなど一切寄せ付けぬような圧倒的な威圧感を放ち、漆黒の馬を駆るその将は――。
「お、叔母上!?」
満福の口から、驚愕の叫びが漏れた。
そこにいたのは、叔父の高吉でも、その従兄弟たちでもない。浅井長政の姉にして、京極家の実権を握る女王、京極の叔母上であった。叔母上自らが具足を纏い、陣頭に立って山崎の戦場へ乗り込んできたのだ。
「長政の忘れ形見を寄ってたかって苛めるなど、羽柴の猿は戦の作法も知らないようです」
麓の街道で薙刀を構える叔母上の声が、戦場の喧騒を越えて山頂の満福に届くはずもない。だが、その凛とした、逆らうことを許さぬ威圧感は、周囲で激突していた両軍の兵たちの動きを、一瞬にして止めていた。
(……凄まじい統率力だ。ただそこに居るだけで、周囲の空気が作り変えられていく。彼女が陣頭に立っただけで、兵たちの恐怖が消え、士気が底上げされているぞ)
脳内の時任が、感嘆を含んだ声で呟いた。
「カカカッ! 恐ろしい女丈夫が御成りじゃ!」
軍師・灰庵が、歓喜に顔を歪めて立ち上がった。
「殿! これは、いけるかも知れませぬぞ。」
「京極の者たち、聞きなさい!」
叔母上は馬上から薙刀を天へ突き上げた。
「あの薄汚い猿の群れを、一人残らず淀川に沈めなさい! 浅井と京極の誇り、今こそ見せつけるのです!」
「「「おおおおおっ!!」」」
京極軍五千が、街道を埋め尽くす勢いで押し寄せ、淀川沿いの隘路で密集する羽柴軍の中央へと突撃を開始した。
対する羽柴軍は、数こそ勝っていたものの、既に内側から崩壊しかけていた。六助の『泥の筒』が撒き散らした虫の被害と、佐助の『狂い汁』で誘引されたオオスズメバチの襲撃。毒を打ち込まれた兵たちは、まともに武器を構えることすらできず、極度の疲労と混乱の極みにあった。
「ひぃっ!? な、なんだあの女将は!」
「だめだ、陣がもたねえ! 蜂の毒で足が動か……っ!」
叔母上が陣頭で薙刀を一閃するたび、羽柴の兵が次々と打ち倒されていく。恐怖と毒に侵された四万の大軍は、その巨大な数ゆえに混乱の連鎖を止められず、互いを踏みつけ合いながら後退を始めた。
「……チィッ、本陣が崩れるか! 覚えとけよ浅井のせがれ! 次こそはその首をもらうぞ!」
加藤清正が、喜三郎との鍔迫り合いから強引に身を引き、吠えた。
「退け、虎之助! ここで討ち死にしては秀吉様に申し訳が立たん!」
福島正則もまた、斎藤利三の決死の壁を崩しきれず、鉾を収めた。秀吉の懐刀である二人の猛将が引いたことで、羽柴軍の前線は完全に瓦解した。
「……逃がすかよ。一番美味しいところは、俺が頂く」
その時、天王山の側面、鬱蒼と茂る竹林の陰から、冷徹な声が響いた。
藤堂高虎である。高虎は、羽柴軍が退却の足並みを乱し、陣形が最も伸び切ったその瞬間を待っていた。
「全軍、横腹を食い破れ! 敵は既に死に体だ!」
高虎率いる精鋭部隊が、泥に足を取られて逃げ惑う羽柴軍の側面に、鋭い楔のように突入した。
この完璧な合間を縫った奇襲が、決定打となった。秀吉の本隊は完全に統制を失い、淀川沿いの街道を我先にと敗走し始めた。
さらにその後方、事態を静観していた織田信包の軍勢一万も、秀吉の敗走を見るや否や、陣払いをして東へと軍を引き始めた。
「これ以上の無駄死には御免だ。……秀吉の負けだな」
信包の冷ややかな撤退により、山崎の戦いの趨勢は決した。
「勝った……のか」
満福は、膝から力が抜け、泥の上に座り込んだ。
冴衣の鉄砲、虫を使った凄惨な罠、猛将たちの死闘、そして叔母上の加勢。すべての要素が重なり、四万という巨大な暴力から生き延びたのだ。
戦場には、生温かい風と共に、血と泥、そして硝煙の匂いが立ち込めていた。
明智光秀は、泥まみれになりながらも天を仰ぎ、声を上げて泣き崩れている。彼にとっては、これで生き延びる道が開けたのだ。
(時任。……俺たちの、勝ちだな)
満福は、鉛のように重い腕を動かし、汗を拭いながら念じた。
だが、脳内の時任の声は、歓喜とは程遠い、冷めたものであった。
(……ああ。目の前の敵を追い払ったという意味では、勝利だ。俺たちの「生存への細い道」は繋がった)
時任は一旦言葉を区切り、現実を突きつけた。
(だが、忘れるな満福。羽柴軍は崩れたが、数万の兵の大部分は生き残って逃げ延びた。あの秀吉という男は、この泥沼での損害を計算し、即座に引くことを選んだだけだ。対して、こちらの弾も、虫も、兵の体力も完全に底を突いている。……実態は『痛み分け』だ)
満福は無言で頷いた。
そうだ。これは天下を決める戦いではない。ただ、秀吉という巨大な波を一度押し返しただけの、必死の延命に過ぎないのだ。
真の敵である織田信長は、未だ岐阜の地で健在であり、いずれ再び牙を剥く。
「……それでも、生き残った。生き残ってさえいれば、次は打てる」
満福は泥だらけの顔を上げ、夕日に染まる山崎の戦場を見渡した。
「殿、ようやりましたな!」
傷だらけの喜三郎が、槍を杖代わりにしながら笑顔で満福に近づいてくる。その後ろからは、煤けた顔の冴衣や、佐助、六助たちも安堵の表情で歩み寄ってきた。
静寂を取り戻しつつある天王山の山頂へ、馬から降りた叔母上が威風堂々とした足取りで登ってきた。
そして、満福の前に立った叔母上は、泥だらけの甥を見下ろした。
「泥だらけですね、まんぷく。長政が見たら呆れますよ」
叔母上はそう言いながらも、その瞳には確かな慈愛の色が浮かんでいた。彼女は持っていた布で、満福の顔の泥を乱暴に拭い取った。
「……感謝いたします、叔母上。叔父上か高次たちが来るものと思っておりました」
「ふん。あの人たちでは、この泥沼を渡り切る前に怖気づいたでしょう。可愛い甥の窮地です。わたくしが駆けつけるのが道理というもの」
* * *
(……時任。両軍の被害はどうなっている。どれほどの兵が生き残った?)
満福の問いかけに、脳内の時任は戦場の凄惨な実態を冷徹な数字として弾き出し、頭の中に響かせた。
(……この戦いで両軍が流した血の量は、尋常ではない)
時任の底冷えする声が、満福の脳裏に被害と残存兵力の全容を突きつけていく。
(まず敵軍だ。三万を誇った羽柴軍は、毒や混乱による同士討ちで八千から一万近い異常な被害を出した。だが、それでもなお二万強の兵力が無傷で残存している。さらに、その後方に布陣していた一万四千の織田信孝軍は、前線の混乱に巻き込まれず完全に無傷のまま残っている)
(対して、迎え撃った我ら連合軍側の出血も限界だ。麓で盾となった一万三千の明智軍は、二千から三千の犠牲を出し、残存は約一万。我ら浅井本隊四千は、乱戦で半数の二千を失い、残存はわずか二千。突撃した五千の京極軍も約千の被害を出し、残存は四千だ)
(連合軍の残存兵力は合わせて約一万六千。被害の合計は五千を超え、これ以上の戦闘継続は厳しい状態だ。対する敵は一万近い死者を出しながらも、羽柴と信孝を合わせてまだ三万四千もの大軍が控えている)
時任の突きつけた残酷な事実に、満福は奥歯を強く噛み締めた。
もし秀吉が損害を度外視して狂気の力押しを継続していれば、間違いなく浅井と明智は物理的にすり潰されていた。秀吉が「これ以上の損害は割に合わない」と合理的に判断し、兵を引いてくれたからこそ生き延びられた、まさに薄氷を踏むような「痛み分け」だったのである。
山崎の地に、夕闇が静かに降りていく。
歴史の歪みの中で発生した「山崎の戦い」は、連合軍の奇跡的な防衛という形で幕を閉じた。
だがそれは、これから始まる覇権を巡る争いのほんの序章に過ぎなかった。
山崎の戦い、決着しました。
合戦の描写、少しでも面白いと思って下さったら、どうか
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