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戦国昆虫戦記【変態飛翔編】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第二章 割れる天下

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第十二話 山崎の戦い 迫る四万の壁

天正十年六月十三日、昼下がり。


山崎の空を覆う鈍色の雲から、再び生温かい雨が落ち始めた。


「佐助の『狂い汁』が雨で薄められていく。蜂どもの勢いが落ちたぞ」

天王山の山頂付近に設けた本陣で、満福は泥に塗れた手で顔を拭いながら呟いた。


眼下の淀川沿いでは、スズメバチの攻撃によって一時的に崩れていた羽柴軍が、再び統制を取り戻しつつあった。秀吉は混乱した先鋒を後方へ下げ、無傷の第二陣、第三陣を次々と最前線へ押し出している。


「……流石は秀吉というべきか。味方の屍と泥を足場にして、構わず天王山へ登ってくるぞ」


満福の言葉に、軍師・灰庵が床幾の上で嫌な笑い声を上げた。

「カカカ、四万という圧倒的な肉の壁があればこそ出来る芸闘よ。さて、殿。小細工の効き目も、そろそろ終わりのようですな」


「まだだ。……六助!」

満福が中腹に向けて鋭く声を張ると、泥だらけの斜面の陰から六助が顔を出した。


「殿! おいら、準備はとっくに出来てますよ!」


「やれ! 天王山の斜面を地獄に変えろ!」


六助が指笛を鳴らすと、山の中腹に潜んでいた者たちが、足元に山積みにされた無数の竹筒――『泥の筒』を一斉に持ち上げた。


「いけっ! おいらが大切に育てた、腹を空かせた可愛い虫たちだ!」


斜面を駆け上がろうとしていた羽柴軍の頭上に、大量の竹筒が雨霰あめあられと投げ落された。

筒は斜面の岩や兵たちの甲冑に当たって砕け散り、中から湿った泥と共に、黒く蠢く虫たちが飛散した。飢餓状態のウシアブ、マダニ、そして強烈な腐敗臭を放つカメムシやムカデの群れである。


「ひっ!? なんだこの虫は!」

「痛えっ! 鎧の隙間に入り込みやがった! 噛むな、肉を噛みちぎるなァ!」


急峻な斜面で身動きが取りづらい羽柴の兵たちは、己の肉を食い破る無数の這う虫に絶叫し、次々と泥の中へ転げ落ちていった。刃による傷以上に、耐え難い嫌悪感と激痛が彼らの進軍速度を劇的に削ぎ落とす。斜面は文字通り、足を踏み入れることすら悍ましい汚泥の罠と化した。


(時任、どうだ。これで少しは時間を稼げるか)

満福は、這い回る虫の姿に吐き気を堪えながら、脳内で問いかけた。


(……いや、このままでは限界だ)

時任の声は、感情を排した冷徹な事実だけを告げていた。


(泥の筒の蓄えにも限りがある。何より、羽柴軍の数が多すぎる。前列が虫の毒と泥に沈んでも、後列がその死体を引きずって登ってきている。罠で稼げる時間は終わった。ここからは、純粋な力の削り合いになるぞ)


その言葉を裏付けるように、泥と虫の海を乗り越え、血走った目をした羽柴の兵たちが天王山の陣を突破し始めた。冴衣の鉄砲隊も筒先が焼け付き、射撃の間隔が延びている。

連合軍一万七千は、四万の波に飲み込まれ、陣形は次第に後退を余儀なくされていた。


麓の平地で粘る明智の主力が押し込まれる。そして、異様な殺気を放つ二つの部隊が、泥濘を蹴り立てて一直線に突撃してきた。


一隊は麓の左翼、明智光秀の本陣へ。

「我こそは羽柴が家臣、福島市松正則! 逆賊・明智光秀の首、この市松が頂戴する!!」

巨大な十文字槍を軽々と振り回す福島正則が、平地の乱戦を切り裂き、光秀の張った幕を切り裂いた。光秀は蒼白な顔で腰の太刀に手をかけたが、極度の疲労と恐怖で足が動かない。


「我が主君に、薄汚い刃を向けるなァッ!!」

そこへ明智軍筆頭家老・斎藤利三が、血だらけの顔で横槍を入れ、正則の十文字槍を凄まじい力で弾き返した。


そしてもう一隊は、険しい斜面を獣のような勢いで駆け登り、天王山頂の満福の本陣へと迫る。

「同じく羽柴が家臣、加藤虎之助清正! 浅井のせがれ、俺の槍の錆にしてくれるわ!!」


泥に足を取られるはずの斜面を、清正は驚異的な膂力で駆け上がり、立ち塞がる満福の兵たちを薙ぎ払っていく。

「見つけたぞ、浅井の若殿! その首、秀吉様への手土産にさせてもらう!」

加藤清正が、長大な片鎌槍を振り被り、満福めがけて跳躍した。巨漢から放たれる圧倒的な死の気配。満福が腰の刀を抜くより早く、清正の刃が満福の脳天を割ろうと迫る。


(避けろ、満福!!)


時任の警告が響く中、満福の視界を遮るように、長身の影が飛び込んだ。

「……百年早えんだよ、ガキが」


鼓膜を破るような金属音。

浅井家の家臣・喜三郎が、清正の渾身の一撃を自身の長槍で受け止めていた。


「……チッ、邪魔が入ったか」


「殿、下がってくだされ! こいつの腕力、尋常じゃありませんぜ……!」

喜三郎は顔を引き攣らせながらも、一歩も退かずに清正と鍔迫り合いを演じる。


山崎の戦場は、麓の明智と山頂の浅井、それぞれが猛将の強襲を受けて大混乱に陥っていた。数と暴力の前に、戦術は意味を失いかけていた。


「カカカ……さて、殿。手持ちの札は完全に尽きましたぞ。陣が破られるまで、あと半刻というところか」

灰庵が、自身に迫る死地すら楽しむように笑う。


満福は、泥に塗れた拳を強く握りしめた。

(耐えろ。……耐え抜くんだ)


満福は、雨に煙る天王山の裏手――京へ続く街道の方角を、祈るように睨み据えた。

(必ず来る。……浅井の最後の切り札が、この盤面をひっくり返しに来るはずだ……!)


その時、雨音と怒号を切り裂くように、天王山の後方から、低く重い「法螺貝」の音が響き渡った。

それは一つではない。数十の法螺貝が重なり合い、地鳴りのような威圧感を伴って戦場を覆い尽くした。


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