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失恋図書館  作者: N.H
39/50

蔵書039『戻らない』


 火曜日の午後三時。


 それが、私の新しい一週間が始まる時間だった。


 慣れた足取りで病院の廊下を進み、突き当りから二番目、408号室のドアを私はゆっくりとノックする。


「どうぞ」


 中にいたのは、私が愛した恋人――衛の顔をした、知らない人だった。


「こんにちは、衛くん」

「あ、こんにちは、奈緒さん」


 彼はベッドの上で、少しだけ気まずそうに微笑む。その他人行儀な「さん」付けが、私の胸を毎週、容赦なく抉った。


 衛がバイク事故に遭って、今日でちょうど一ヶ月が経つ。


 奇跡的に身体は、数週間のリハビリで元通りになるほど回復した。ただ一つ、彼の頭の中から私と過ごした三年間の記憶だけが、綺麗に消え去ってしまったことを除けば。


 選択的逆行性健忘。お医者様は難しい名前で、そう言った。


 私はそれを、悪夢と呼んだ。


「今日はね、これを持ってきたんだよ」


 私はバッグから一冊のフォトアルバムを取り出した。今日の、私の武器だった。


「一昨年の夏に行った、鎌倉。衛くん、暑いの苦手だからずっと日陰探してたよね」


 写真の中の私たちは江ノ電を背景に、馬鹿みたいに幸せそうに笑っていた。


彼はその写真を、珍しいものを見るような目で静かに見つめている。


「……この男、楽しそうだな」


 写真の中の自分を指して、他人事のように言った。


「うん、楽しかったよ。すごく」

「……ごめん。やっぱり、思い出せない」


 胸の奥が、ずきりと痛む。分かっていた。今日も、ダメだった。


 それでも、私は諦めたくなかった。このアルバムの中にある、幸せだった私たちの時間が全て嘘になってしまうことだけは、どうしても認めたくなかった。


 病院に通い始めて、三週間が経った頃。

 私は衛が私以外の人と笑っているのを、初めて見てしまった。


 中庭のリハビリスペースで、車椅子に乗った髪の短い女の子と楽しそうに話している。その笑顔は私が知っている、衛の笑顔だった。私にもう二度と向けられることのない、屈託のない優しい表情。


 胸騒ぎがした。看護師さんに、そっとあの子の名前を尋ねる。「ああ、日菜ちゃんね」と、彼女は教えてくれた。


 それから私の訪問は、少しずつ、空振りに終わることが増えた。


「衛くんなら、今、日菜ちゃんとお散歩してるわよ」

「今日は、日菜ちゃんのご家族と談話室で話してるみたい」


 私の知らない「日菜ちゃん」という名前が、当然のように、衛の日常に溶け込んでいく。


 私の心は見えない何かに、少しずつ蝕まれていった。


 そして、運命の日が来た。


 私が病室を訪れると、衛は真剣な顔で窓の外を見ていた。


「……奈緒さん」


 私が入ってきたことに気づくと、決意を固めたように私に向き直った。


「俺、退院したら、夢を目指そうと思う」

「え……?」

「この病院で、やりたいことが見つかったんだ。理学療法士の勉強を、もう一度、大学でやり直したい」


 それは、事故に遭う前の彼が一度も口にしたことのない夢だった。


「……そっか。すごいね、頑張って」


 そう言うのが、精一杯だった。

 彼は少しだけ、言いづらそうに言葉を続けた。


「奈緒さんには、本当に、感謝してる。何も覚えてない俺に、根気強く、昔の話をしてくれて。……写真の中の俺は、本当に、幸せそうだった。きっと奈緒さんのこと、すごく愛してたんだと思う」

「……うん」

「でも、ごめんなさい。今の俺は、あの写真の中にいた『俺』じゃないんだ」


 この言葉が、私の淡い希望を見事に打ち砕いた。


「俺には……今の俺には、好きになった人がいるんだ」


 分かっていた。聞きたくなかった、言葉。


「日菜ちゃんなんだ。彼女も俺と同じように、必死にリハビリを頑張ってる。その姿を見て、俺、初めて……今の俺として、初めて人を好きになった」


 彼はどこまでも誠実な瞳で、私を見た。


 もう、私が入り込む隙間は、どこにもなかった。


「今の俺が、好きになった人なんだ」


 私は負けたんだ。


 過去の思い出にしがみついていた私は、今を生きる彼の新しい恋に、完膚なきまでに負けたんだ。


 私は彼にとって、『親切な昔の知り合い』でしかなく、そしてこれからも、それ以上にはなれない。


 持っていたフォトアルバムが、手から滑り落ちた。


 ばらばらと床に散らばる、幸せだった私たちの思い出の欠片。


 写真の中の衛は、変わらず私に笑いかけている。


 私はもう、何も言えなかった。


 静かに頭を下げると、散らばった写真を拾うこともせず、病室を後にした。


 長い長い、病院の廊下を、一人歩く。

 

 涙は出なかった。


 ただ胸の中に、巨大な空洞ができただけだった。


 私は今日、愛する人を、二度失った。


 思い出の中にだけ生きる彼と、そして目の前で別の誰かを選んだ彼を。


 ここに来ることはないだろう。


 私の長すぎたお見舞いは、今日で終わりだ。


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