蔵書040『終わりが決まってる恋』
九月三十日。
私たちの恋に設定された賞味期限の、最後の一日。
目を覚ますと、隣にはまだ穏やかな寝息を立てるレオの顔があった。朝日がその色素の薄い髪を、きらきらと照らしている。この光景を、私はあと何時間見ていられるんだろう。
彼が交換留学生としてフランスからやってきた、去年の秋。私たちは大学のサークルで出会い、恋に落ちた。
「一年後には、必ず国に帰る。それでもいいの?」
初めて好きだと告げてくれた日。彼は申し訳なさそうに、そう言った。
私は迷わずに頷いた。
「うん。一年だけ、って分かってる。だからその一年間、誰よりもたくさん思い出を作ろう」
泣かない。最後は笑顔で「またね」って言う。
それが、私たちの最初の約束だった。
部屋の隅には、彼が昨夜のうちに詰め終えた巨大なスーツケースが、まるで墓標のように静かに立っていた。
「おはよう、有紗」
目を覚ました彼が私の名前を呼ぶ。私は込み上げてくる何かを必死に押し殺して、「おはよう」と、精一杯の笑顔を作った。
私たちの最後の一日は、私たちが始まった場所で過ごすことにした。
千葉の九十九里浜。
去年の夏初めて二人で遊びに来て、初めてキスをした場所。
秋の始まりの海は、夏の喧騒が嘘のように静かだった。寄せては返す穏やかな波の音が、私たちの間に流れるぎこちない沈黙を埋めてくれていた。
「覚えてる? あの日レオ、日本語めちゃくちゃでさ」
「覚えてるよ。有紗が、ずっと笑ってた」
「だって、面白かったんだもん」
私たちは砂浜に並んで座り、他愛ない思い出話を繰り返した。
楽しかった記憶のはずなのに、話せば話すほど、その全てがもう二度と戻らない『過去』なのだと思い知らされるだけだった。
「……パリに来たら、案内するよ。ルーブル美術館も、エッフェル塔も」
彼がそう言ってくれた。
「うん、行く。絶対、行くから」
私たちは、きっと守られることのない未来の約束を互いに交わした。そうでもしないと、今この瞬間を、どうやって乗り越えればいいのか分からなかったから。
時間は残酷なほど、正確に過ぎていく。
私たちは、成田空港の出発ロビーにいた。
無機質なアナウンスが、彼の乗る便の搭乗開始を告げている。
ついに、この時が来てしまった。
「……じゃあ、そろそろ行くね」
彼が立ち上がる。私もつられて立ち上がった。
「うん」
「……泣かない、って約束だろ?」
彼はそう言って、無理やり笑ってみせた。笑顔が泣いているように見えて、私の胸は張り裂けそうだった。
「泣いてないよ」
私も嘘をついた。
彼は私に向かって、そっと両手を広げた。
最後だと分かっていたから、私は思い切り、その胸に飛び込んだ。彼の大好きだった匂い。私を包み込む大きな背中。
この温もりを、明日からどうやって思い出せばいいんだろう。
「有紗。この一年、人生で一番幸せだった。ありがとう」
耳元で、彼がかすれた声で囁く。
その言葉が、私のなけなしの理性をぶち壊した。
ぽたり、と。
一筋だけ涙がこぼれ落ちて、彼のシャツに小さな染みを作った。
それを見た彼の瞳からも一筋、光るものが頬を伝った。
ダメダメ。
私たちの最初の約束は、こんなにもあっけなく、破られてしまった。
「……嘘つき」
私は彼の胸に顔をうずめたまま、呟いた。
「……行かないで。もっと、一緒にいたいよ」
言ってはいけないと、分かっていた言葉。彼の決心を鈍らせるだけの、身勝手な我儘。
彼は私を抱きしめる腕に、ぐっと力を込めた。
「……俺もだよ。ごめん、有紗。ごめん……」
最終搭乗を促す最後のアナウンスが、無慈悲に響き渡る。
彼は名残惜しそうに、でもゆっくりと、私から身体を離した。
そして私の涙を指で優しく拭うと、一度だけ私の唇に、そっと、キスをした。
しょっぱい、さよならの味がした。
歩き出した彼はもう、一度だって、こちらを振り返らなかった。
振り返ってしまったら、歩き出せなくなると分かっていたからだろう。
保安検査場の向こうに、彼の背中が消えていく。
一人ロビーに取り残された私は、出発便を示す電光掲示板を、呆然と見上げていた。
彼の乗る便の表示が、『搭乗手続中』から『出発済』に変わる。
たった三文字が、私たちの三百六十五日分の恋に、終わりを告げた。
約束なんて、しなければよかった。
後悔しないなんて、嘘だった。
後悔しかない。もっと、好きだと伝えればよかった。もっと、我儘を言えばよかった。
そんな意味のない言葉だけが、胸の中で渦巻いている。
私は塩の味がする唇をきつく噛み締めると、彼が消えていったゲートに背を向け、歩き出した。
賞味期限が、切れてしまった。
私の恋は、今日、おしまい。




