蔵書038『未読のバイバイ』
私の世界は、スマートフォンの画面の中にしかない。
正確に言えば、彼のSNSアカウントと、私たちのトーク画面。その二つだけが、今の私の全世界だった。
郁人と連絡が取れなくなって、今日でちょうど一週間が経つ。
私たちの最後の会話は先週の土曜日の夜、電話で話した「じゃあ、また明日ね」といういつもと変わらない、優しい声。日曜の朝、私が送った『おはよう』のメッセージから、ぱったりと、彼からの返信は途絶えた。
最初は寝坊しているだけだと思った。
昼になっても未読のままで、少しだけ胸騒ぎがした。
夜になっても電話に出ない。心配で、心臓が潰れそうになった。『何かあったの? 事件にでも巻き込まれたんじゃ……』。そんな最悪の想像ばかりが、頭を駆け巡った。
地獄のような不安が、別の種類の地獄に変わったのは、月曜日の夜のことだった。
彼の親友のアカウントが、インスタグラムのストーリーを更新した。
『昨日のフットサル、お疲れ!』
コメントと共に投稿された動画の中に、彼はいた。
仲間たちと楽しそうに笑いながら、ペットボトルの水を頭からかぶっている、いつもと変わらない元気な郁人が。
――よかった、生きてたんだ。
安堵の直後、全身の血が急速に冷えていくのを感じた。
生きてる。元気なんだ。
じゃあ、どうして?
どうして私のメッセージを、私の電話を、無視するの?
その日から、私の日常は壊れた。
朝目が覚めると、まず彼のLINEを開く。相変わらず、私のメッセージは未読から変わらない。
次にインスタを開く。彼の最終ログイン時間は、5分前。ストーリーの閲覧者リストに、私のアカウントがあることを確認する。彼は見ている。私の生存確認を、彼もしている。でも、何も言ってこない。
Xを開く。彼がいいねした投稿を一つ一つ確認する。彼がフォローした、私の知らないカフェのアカウント。彼がリプライを送っている、知らない友達。過去の投稿を、何時間も、何時間も、遡る。
仕事中も、食事中も、お風呂の中でも、私は彼の幻影を追いかけ続けていた。
画面の向こうで、彼は私がいない世界を当たり前のように生きている。友達と飲みに行き、好きなバンドの新曲にコメントし、面白かった映画の感想を投稿する。
あまりにも普通な日常の投稿の一つ一つが、鋭いナイフになって、私の心を切り刻んだ。
私と約束していたはずの週末に、彼は別の友達と海に行っていた。
私がプレゼントしたTシャツを着て、楽しそうに笑っている写真が、タイムラインに流れてきた。
もう、やめたい。
こんな、ストーカーみたいな真似。でも、やめられない。
画面から目を離してしまったら、彼との繋がりが、本当に、完全に、消えてしまいそうで怖かった。
理由が分からない。
喧嘩もしていない。何か、怒らせるようなことを言った覚えもない。
ただ突然、私は彼の世界から透明人間にされてしまった。
そして、今日。連絡が途絶えてから、ちょうど一週間。
私は憑き物が落ちたように、静かに、LINEの画面を開いた。
そして毎日、ずっと考えていた最後の言葉を、震える指で打ち込んだ。
『私と過ごした時間は、楽しかったですか。
さよならも言えないくらい、私はあなたにとって価値のない女でしたか。
もう会えないなら、せめて一言、バイバイって言ってほしかったな』
送信ボタンを押す。
もうこれ以上、送る言葉はない。これが私の、精一杯の別れだった。
私はじっと、画面を見つめ続けた。
この最後の言葉を読んでくれるのを、待っていた。
一時間。二時間。
時計の針が、深夜を指す。
でも私のメッセージの横には、いつまでも、いつまでも、『既読』の二文字がつくことはなかった。
彼の世界では、私の悲痛な叫び声さえ、存在しないのだ。
画面の向こうで彼は、新しい生活を過ごしている。
私一人だけが、この永遠に読まれることのない「バイバイ」を抱きしめて、真っ暗な部屋の中で取り残されている。
そのあまりにも不公平な事実に、涙さえ、出てこなかった。




