1-5 : 残響
雨の路地裏に吐き出された加賀美は、しばらくの間、自分の足が地面に着いている感覚さえ掴めずにいた。
右目の奥を焼いていたあの悍ましい熱は、跡形もなく消えている。
加賀美は、濡れたコンクリート壁に背を預けた。冷たい雨が頬を叩く。不思議と不快ではない。むしろ、この雨の冷たさこそが、自分がまだ生きていることを証明する唯一の錨のように思えた。
「……消えた」
自分の声が異様に低く、震えていることに気づいた。
銀鍼は、痛みだけを奪ったのではなかった。長年、自分を「刑事」として繋ぎ止めていた激痛という名の鎖を、あの指先はいとも容易く断ち切ったのだ。
あそこへ戻れば、また「正義」を演じなければならない。不毛な手続き、嘘を吐く容疑者、それを見逃す上層部。それらすべてを許せない「怒り」こそが、自分の原動力だったはずだ。
だが、今の加賀美には、その怒りを燃やすための火種がない。
(……俺を、何に変えた)
加賀美は濡れた手を強く握り込んだ。
東雲怜。
あの男の瞳は、久我山の死体と同じ色をしていた。何も映さず、ただそこにある停止点。
「……あいつは、殺っている」
証拠はない。だが、この不自然なまでの静寂こそが、何よりも確実なホシの輪郭を浮き彫りにしていた。
その時、加賀美の背後、路地の暗がりに停まっていた黒塗りのセダンが、静かに発進した。
加賀美は気づかない。
車内では、男がタブレットの画面を見つめていた。そこには、赤外線カメラで捉えられた、東雲の鍼灸院を去る加賀美の姿が、熱の塊として鮮明に映し出されている。
「……面白い。猟犬が、薬を求めて毒飼いに餌付けされたか」
男は、久我山がいた『聖アルカディア財団』の内部調査官、嵯峨だった。
嵯峨は冷笑を浮かべ、タブレットを閉じた。
「『調律』の時間は終わりだ。次は、共鳴させてもらう」
加賀美は、雨の中に再び歩き出した。
足取りは軽い。だが、その足先が向かうのは、警察署でも、自宅でもなかった。
彼が、どこへ向かっているのか。
まだ、誰も知らない。




