1-4 : 神門(しんもん)
雨は、すべてを洗い流すのではなく、淀みを濃くするために降っているようだった。
谷中の路地裏。加賀美誠一は、看板とも呼べないほど控えめな木札の前に立った。
「東雲鍼灸院」。
そこから漏れ出す沈香の香りが、雨の湿気と混ざり合い、加賀美の鼻腔の奥にある「痛み」を直接撫でた。
右目の奥を千枚通しで突き立てられるような激痛に耐え、加賀美は引き戸を引いた。
「……いらっしゃい。本日の診察は、もう終わりですが」
奥から現れた東雲怜は、白い診察衣に身を包んでいた。
加賀美の網膜が、その姿を捉える。柔和な微笑。だが、その瞳だけが背景の影に溶け込むほどに深い。加賀美は、刑事としての本能が警鐘を鳴らすのを聞いた。目の前の男は、自分と同じ「境界線」に立っている。
「ひどい頭痛だ。……あんたなら、これを黙らせてくれると聞いた」
加賀美は、警察官としての矜持を診察室の床に捨て、診察台に腰をかけた。
東雲は無言で歩み寄る。その歩法には一切の揺らぎもない。東雲は加賀美の正面に立ち、その冷たい指先で加賀美の右手首を掴んだ。
指先が、脈に触れる。
その刹那、加賀美は己の心臓が、見えない糸で吊り上げられたような錯覚を覚えた。東雲の指先を通じて、自分の内臓の震え、血管の悲鳴、そのすべてが透視されている感覚。
東雲は沈黙したまま、漆塗りの箱から一本の銀鍼を取り出した。
加賀美の視界の端で、銀の光が細く跳ねた。
東雲が、加賀美のこめかみに指を添える。のたうち回る血管の、その「停止点」に指先が固定された。
「三秒、深く潜ってください」
鍼が、肉体を拒まずに沈んでいく。
一秒。
脳内を支配していた拍動が、嘘のように遠のいた。
二秒。
数年ぶりに、加賀美は自分の「呼吸」の音を聞いた。
三秒。
正義の重みが、音もなく消えた。
加賀美は、自分が何者だったかを思い出せなかった。ただ一人の、壊れた人間として診察台に横たわっていた。
「……どうですか」
東雲の声が、どこか遠くで響く。
加賀美は、震える手で自身の顔を拭った。痛みが消えた。だが、その代わりに、底知れない「虚無」が胸に穴を開けた。安らぎのすぐ裏側に、この男に魂の一部を削り取られたのではないかという恐怖が、薄氷のように張り付いている。
「……あんた、何者だ」
加賀美が振り絞った問いに、東雲は柔和な微笑を返した。
その瞳には、一切の温度を持たない「停止」が宿っていた。
「ただの、鍼灸師ですよ」
雨の音が、診察室の静寂をより深く塗り固めていった。




