1-3 : 刑事の悪癖
翌朝、加賀美誠一は現場のドアを潜った瞬間に、自身の判断が狂い始めているのを自覚した。
視界の右端がチカチカと明滅している。偏頭痛の前兆――閃輝暗点だ。
加賀美にとって、この痛みは「正義」の重みそのものだった。法という不自由な武器で、手続きという名の鎖に縛られながら悪と戦おうとするたびに、脳内の血管は怒りに膨張し、内側から頭蓋を叩き割ろうとする。
「鑑識の判定は」
低く、地這うような声。
遺体の横で作業をしていた鑑識員が、振り返りもせずに答えた。
「心不全です。争った形跡も、薬物の痕跡もなし。強いて言えば、心肥大が進んでいたようです。……警部補、また顔色が酷いですよ。少しは休んだらどうです」
加賀美は若手の進言を黙殺し、遺体の前に膝をついた。
『聖アルカディア財団』常務理事、久我山。かつて加賀美が贈収賄の証拠を掴みながらも、上層部からの圧力と書類の不備で取り逃がした男だ。
法で裁けなかった男が、今はただの肉の塊としてソファに横たわっている。その死に顔は、不気味なほどに凪いでいた。断末魔の苦悶も、死への抵抗も、この顔には存在しない。
加賀美は、死体から漂う微かな匂いに、内臓を掴まれるような感覚を覚えた。
血の臭いではない。死臭でもない。
沈香――。
それは、加賀美が最も激しい怒りと痛みに苛まれている時、無意識に渇望してしまう、あの静寂の匂いだった。
「……ありえない」
加賀美は震える手で拡大鏡を取り出し、久我山の頸部へ押し当てた。
毛穴の並びに潜む、一点の綻び。
通常の検視では見逃されるであろう、極小の穿刺痕があった。内出血すらない。それは傷というより、精密機械の電源を落とすために用意された「停止点」のように見えた。
かつて、加賀美は法の手続きを遵守するあまり、証拠の提出を一日遅らせ、救えるはずの証人を失ったことがある。その日から、彼の脳内では絶えず「正義という名の雑音」が鳴り止まない。法が守るのは被害者ではなく、手順を熟知した強者だけだという絶望が、彼の脳を焼き続けている。
いま、自分に必要なのは、このホシを挙げるための証拠ではない。
この、脳内で爆ぜ続ける雑音を止めてくれる、冷たい指先だ。
加賀美は内ポケットから、ボロボロになった手帳を取り出した。
そこには、情報屋から得た「谷中の名医」の住所と、加賀美自身が抱える「不治の頭痛」という弱みが書き込まれている。
ズキリ、と右の眼窩を抉るような痛みが走った。
加賀美は自身のこめかみを、指が白くなるほど強く押さえた。
加賀美は捜査本部への報告を部下に預け、独り、現場を後にした。谷中の路地裏にある、その「停止点」へ向かうために。
「……神の如き手か、あるいは神を殺す技術か」
加賀美の吐いた溜息が、雨を含んだ朝の空気に白く消えた。
「どっちでもいい。……俺を、黙らせてみろ」




