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流転の皇子は終着点をめざす。忠臣と共に


皇太子オケアノスの半生は、ひとことでいえば「流転」だ。


母の実家は帝国建国時から続く旧家で、古代国教の総本家。母自身も、浮世離れした巫女姫だ。

権威はある。長年連れ添った皇后を側妃に変え、正皇后の地位を得るほどに。

だが、現世を生き抜く権力や財力がない。

教会の政治介入を拒否するためだけに娶られた、お飾りの正皇后。

煌びやかな宮殿ではなく、神殿付きの古い離宮に入居した無垢な少女。

幽閉に気付くことなく、日々の祈祷に励んでいた巫女姫は、僅かな渡りで男児を得てしまった。

それが、オケアノスだ。


正皇后の第一子なのに、後ろ盾がない。

ろくな側使えもいない。


皇族に直接雇用される平民はいないのに、実質はスゥの両親がオケアノスの世話をして育てた。貴族階級の乳母や従者、教師たちが、まじめに仕事をしなかったからだ。

また、清貧を良しとする無垢な皇后は、離宮や我が子を取り巻く悪意にひどく無頓着だった。


最も、「平民に身を触れさせる末王子」という不名誉は、乳児期のオケアノスを守りもした。誅殺する価値もないと、敵対者たちを侮らせた。


逆に、皇帝は子の愚鈍を許さない苛烈な暴君だ。

第6王子と13皇子は事故で肢体不自由になったとされているが、実際はいわずもがな。幼少期に種痘を患った第2皇子は、見目が悪いからと臣下におろされている。優秀な大臣ではあるが。


頭角を現せば兄皇子たちに命を狙われ、愚者に徹すれば皇帝に殴打される。実に理不尽な立ち位置だ。


物心ついたころには、オケアノスは「適度に賢いが、所作に難のある王子」のふりに慣れていた。

野心のない、傀儡仕様の皇太子。

本人はそのつもりでいたが、いかんせんオケアノスである。

隠してひっこむような皇気ではない。


亡命を余儀なくされたのも、それが理由だ。

10歳になる少し前から、オケアノスは敷地内の池で鳳凰たちに餌をあげていた。黒豆を落とした時に、くらいついてきたから。

あり得ない話だが、少年時代のオケアノスのおやつは、炒った黒豆だの大豆だの胡桃だの。離宮の母子に割り当てられた財源はごっそり中抜きされていて、食事も衣服も最低限しか与えられなかったのだ。

食が細かったオケアノスは、むしろ喜んで鳳凰を餌付けした。「美しいな」とか「鳳凰は、黒豆を好むのか」程度の認識だった。

親の愛や人肌に飢えていた少年は、懐いてくる生き物がただただ可愛かったのだ。犬や猫はうっかり愛でると殺されてしまうけど、鳳凰なら不死だから。

それが賢帝を見定める聖鳥だなんて、思い至らなかった。

やがて、密偵が兄皇子たちにそれを報告し、兄皇子たちがズカズカと離宮に踏み込んできた。そして、景気良く最高級の豆を撒いたが、鳩一羽来ない。遠くで鴉が鳴いただけ。


嘘の報告をしたと密偵が斬られ、凄惨な遺体が離宮の池に捨てられた。涙を流して冥福を祈るオケアノスに、鳳凰たちが優しく寄り添ってくれた。

紅蓮の炎を身に纏っているのに、ちっとも熱くない。

その炎に焼かれないこともまた天子の証だが、そんなものは求めていない。欲しいのは、自分に仕える者たちと母の安全だけだ。

オケアノスが「もう、ここに来てはいけない」と言うと、鳳凰たちは離宮から姿を消した。


身の危険が本格化したのは、それからだ。


亡命した時、オケアノスは10歳だった。

僅かな従者はオケアノスの盾となり、ひとり、またひとり命を落として、大陸中東部の中央平原に辿り着く頃には、スゥだけになった。

身を隠す森も起伏に富んだ地形もない。東に向かってなだらかな下り坂が続いてゆく。見晴らしが良すぎて逃亡に向かない大草原で、オケアノスは熱病に罹った。

追手は激減したが、用心深いスゥは星明かりを頼りに夜に移動した。熱で朦朧としたオケアノスを抱えて、わずか14歳の少女が。

高熱が見せた夢かもしれないが、喜怒哀楽を顔に出さないスゥが目を覚ますたびに微笑んでくれた。体が辛かったことより、その笑顔が嬉しかった印象が強い。


「南南西に焔が。主戦場です」


「……ああ」


スゥの声で、オケアノスの意識が現在に戻った。

サンドライトの西端。帝国の東端。

オケアノスたちは今、馬ではなく、死屍竜(アンデッドドラゴン)で夜空を駆っている。

仮初の命を与えた、禍々しい不死生物。手綱をひくたびに、脆くなった皮膚細胞が、ボロボロと落下してゆく。

前に乗って前方を見据えるは、忠臣のスゥだ。

亡命時にオケアノスを馬に乗せて、手綱を握ってくれた人。

今、オケアノスは彼女を前に乗せて、自ら死屍竜(アンデッド・ドラゴン)の手綱を引いている。


「サンドライトが有利か。だが、あまり戦局は動いていないかな」


「はい。もともとサンドライトは防衛戦に特化していて、国境をこえる進軍と無縁でしたから。ただ、ワイバーンが目覚める夜明けには、大動乱が起こりましょう」


「うむ。急ごうぞ」


「御意」


オケアノスが虐げられようが、亡命しようが、贄となろうが、自我を戻そうが、スゥの態度は変わらない。

純潔を穢し、その人生を破壊したのに。

オケアノスの右手首が、ピクッと痙攣した。

神堂に操られていた当時の所業を思い出すと、反射的に痙攣することがある。手綱を落とすほどではないが、頻度が増えている。


今、騎乗しているドラゴンの死も。その日の澄んだ空の色も。断末魔の声も。思い出せば右の手首が震えた。


まだ若い、青年期手前のドラゴンだった。

新緑色の鱗が、きらきら輝いていた。


あの頃、体は自由にならなかったが、神堂穂成の精神構造はだいたい理解できた。自尊心を高める感情操作ならば、おおむね成功することも。


罪滅ぼしにもならないが、この竜を屠る瞬間、「なぶり殺すより、一撃で倒す方が、チート感が凄い」と囁き、痛みが最小限ですむよう、誘導した。

手酷く犯され、苦痛にもがく女たちを前に、「もっと凄い痴態を」と鎮痛成分の強い麻薬を盛るよう、囁いた夜もある。


戯れに惨殺した男たち。嬲り殺し、または狂わせた女たち。

心の中でいくら墓標を立てても、命は戻らない。だからせめて、皇族の記憶に存在を残す名誉を与えたい。無冠の皇子には、そんなことしかできないから。


「スゥよ。余を地上に降ろした後は、自由に生き、伴侶を得て、幸せになれ、などと命じても聞かぬのだろうな」


オケアノスが呟くと、スゥは感情のこもらない平坦な声で「当然です」と即答した。

オケアノスは気持ちよく笑って、手綱を引きつつ、背中から彼女を抱きしめた。この世界でたったひとりの、愚かで哀れで有能な忠臣を。


少年時代、どれほど強く彼女を伴侶に欲しただろう。

決して、願ってはいけない恋だった。

愛でようが犯そうが殺そうが自由にして良い存在なのに、伴侶にすることだけ許されない。

それが、冷遇されていたとはいえ皇族であるオケアノスと、代々斥候職と暗殺術を生業としてきた家系の平民スゥとの関係性だった。


神堂のことがなければ、思春期に欲望の処理を提案され、それを機に愛人にしていたとは思う。

かといって、互いを想い合う恋人になれたかというと、それも微妙だ。彼女の忠義心と自己犠牲に、慕情の色はない。


今だって、オケアノスが欲すれば、当たり前に伽に応じるだろう。

逆にオケアノスがどこぞの少女に懸想すれば、誘拐も辞さずに膳立てするのだろう。


スゥに限らず、皇族の従者は職務に忠実で、愚直なまでに従順だ。

その資質を正しく導けない自分が、ただ情けなくて歯痒い。


「……ならば、巻き込むぞ? 余の為すことの全てに」


「光栄です」


誰よりも幸せになってほしいのに、その方法がわからない。

かといって、手放すこともできないなんて。


オケアノスは自らを嘲笑った。

こうやって際限なく罪を重ねてゆくのが、オケアノスという人間の本質なのだろう。





大将軍トニオ・アリスト辺境候は2メートルを超える巨体で、軍馬にまたがれば数メートルの体躯を誇る巨人と錯覚される。

辺境槍を振り回し、敵の騎馬を蹴散らして前進する姿は、まさに「軍神」だ。

陣形を崩した帝国兵に、恐怖心を植え付ける闘将。

「ムリだ、勝てない」

誰かが呟くと、他の者たちも頷いて歯をガタガタ鳴らした。

トニオは深追いはせず、部下に追撃を任せた。


「全く! 新参兵ばかりとはな! 鍬を持った農夫までおるわ!」


部下たちに前を譲りながら、トニオは立腹した。


「はい、父上。斥候隊の報告どおり、将校も少ないですな」


鬨の声が響く戦場でありながら、彼の息子アルマリオ・アリスト副将軍はしっかりその声を拾い、相槌を打った。

ついでにウイスキーの水筒も差し出す。粗忽者の割に用意が良いのは、優秀な嫁の采配だろう。


「ユーコウの考察どおり、この戦場に送られた兵士たちは、捨て駒なんでしょうね」


ならば、本陣はどこにある?

帝国側の目的は?

逡巡を振り払うように、大将軍は号令を飛ばした。


「進軍を続けよ! このまま国境の砦と都市を制圧する! サンドライト侵攻の拠点を潰すぞ!」


「イエッサー!」


頭数は倍近いが、帝国軍は正規の訓練を受けていない兵卒ばかり。

魔獣との戦いに慣れたサンドライト軍の敵ではない。

数で押し切れなくなった帝国軍は、目に見えて後退をはじめている。


やがて大湿原の地平線から、朝陽が光の筋を投げかけた。

夜明けだ。

トニオの、いや、飛竜と共に生きる辺境軍人たちの背筋に、ぞわりと悪寒が走る。

戦場の篝火では見えなかった、空の闇に隠されていた脅威が、朝陽に照らされてその姿を現した。

それは、侵攻方向の西空にあった。

雲だ。巨大な雲。

ギィギィと唸る、真紅の雲。恐ろしいスピードで膨れ上がり、ぐいぐいとこちらに近づいてくる。


「なんだ、あれは……」


戦の音が止んだ。

敵も味方も、困惑しながら空を見上げた。


「父上! ワイバーンです!」


妻からオペラグラスを拝借したアルマリオが叫んだ。


「脳共鳴か?! 死屍飛竜騎士の先導ではないと?!」


「わかりません!! とにかく、大群がこちらに向かっています! あの赤い雲は、全てワイバーンです!!」


アルマリオの絶叫に、敵も味方もなく息を呑む。


「こ、こんな規模だなんて、聞いてない! ぜ、全軍、退却せよ!!!」



帝国将校たちが伝令を飛ばすが、兵卒は正規の軍人ではないか、奴隷兵か、新兵の寄せ集めだ。

立ちすくみ、動けなくなる者。

鍬を抱えて逃げる者。

恐慌をきたして敵味方なく切り掛かる者と、烏合の衆と化した。


「待て! 帝国軍に飛竜騎士(ワイバーンライダー)はおらんのか?!」


戦争どころではなくなった戦場で、トニオは敵将と思しき将校を追いかけ、馬上から首根っこを引っ捕えた。


「ガハッ」


寄せ集めの将は、なんとも面構えの軟弱な男だった。没落した貴族だろうか。筋骨隆々としたシギ民族の軍人ではない。

男は皮肉な笑みを浮かべ、唾を吐いた。


「へっ! 幻獣部隊なんてエリート軍人が、このような泥戦場に足を運ぶとでも?」


「ぬ?」


トニオは魔獣の体液を浴びまくっているので、人間の体液なんざ気にしない。男は目を丸くしながらも、なお悪態を続けた。


「聞けよ、ど田舎の将軍さんよ。俺は軍部の権力争いに敗れ、冤罪で流刑された尉官だよ。ついてねぇ人生だったわ。道連れにしてやる! 死ね!」


男は、隠し持っていた毒剣を懐から取り出した。トニオほどの戦士でも、触れただけで死に至る猛毒の刃を。

トニオはそれに触れることなく、パンと手刀で叩き落とした。

地面に落ちた毒剣は、周囲の枯れ草を紫色に変色させた。


「貴様の過去など、知らんわ! 将ならば、兵を守れ! この愚か者が!!」


天雷の如き怒声に、喧騒が止んだ。

早朝の湿原に、冷たい風が吹きすさぶ。


「前言撤回! 辺境軍はこれより、対ワイバーン迎撃体制に移る! ワイバーンを民間人の集落に向かわせてはならん! ここで食い止めるぞ!!!」


トニオは、馬上から敵将をぶん投げた。

帝国軍はますます混乱し、サンドライト軍は青ざめた。


「了解(イエッサー)!」と応える戦士たちの頬が、もれなく引き攣っている。


数十頭、数百頭ではない。飛蝗のごとく空を覆うワイバーン相手に、非力な人類がどう立ち向かえというのだ。

辺境軍を蹴散らした飛竜たちは、辺境候邸、辺境伯邸を中心とした集落を、首都に続く街道に点在する宿場町を、やがてはサンドライト全土を攻撃するだろう。


「伝令係は集落の民を地下に避難させよ! 速馬隊は宿場町で馬を変えながら、陸路で王都をめざせ!」


トニオが叫ぶ。


ワイバーンなら半日で王都に到着するが、馬で10日はかかる道のりだ。追いつかれる可能性しかない。


だが、やるしかないのだ。


辺境軍が死に絶えても、サンドライトは滅ぶまい。

往年の問題児、最凶の双子、絶妙な仲の悪さが傍迷惑な国王と王弟の耳に入りさえすればいい。

彼らなら、どうにかしてくれるだろう。

してもらわなくては、命を賭ける甲斐がない。


初老の辺境候は、迫り来る真紅の雲を仰いだ。


湿原の友ワイバーン。

黒くて丸い瞳をキラキラさせて、水浴びをしたり悪戯をしたり。

トニオたち辺境の民は、幼少期より彼らと親しんできた。

共通の天敵である、追放竜や大蛇獣バジリスクを共に倒してきた。

トニオの相棒アレスは、飢饉の冬に南の島に出向き、たくさんの果物を運んでくれた。

婚約者だった妻の夜這いを手伝ったのは、彼女の相棒だ。

トニオは学園を卒業したら直ぐに結婚するつもりでいたが、妻は遠距離恋愛に不安を抱いていたらしい。学園の寮で、ふたりは結ばれた。

次の日の朝、「順番逆だけど、プロポーズ決めてね!」とばかりに、風光明媚な花畑に拉致されたのも良い思い出だ。


茶目っ気と愛嬌たっぷりで、朗らかなワイバーンはここにはいない。

獰猛な竜族が、滝のように、豪雨のように、急降下してきた。


「友よ! 目を覚ませ!」


「畜生!!!」


真紅の恐怖が、地上を覆った。

叫び声、羽の音、断末魔。

ワイバーンは牙を剥いてブレスを吐き、辺境軍は命の限り槍をふるった。

積み木を崩すように、あっけなく人命が狩られてゆく。狩られた命は踏み潰されて、原型を留めることさえできない。

シギ軍も辺境軍もない。戦争どころではない。

それは壮絶な、地獄絵図だった。


辺境最強の誉れ高いトニオも体当たりを受けてよろめき、ブレスを浴びては火傷を負った。


「時間稼ぎにも、ならんか……。陛下……申し訳、ない」


ひときわ大きな個体が、急降下してくる。

いくつかの群れを統べる、リーダーだろうか。

さすがは湿原の友だ。

怒り狂っていても、将が誰か、誰を潰せば陣形が崩れてるか、ちゃんと分かっている。


願わくば、夜明けと共に目覚めたであろう我が騎竜アレスに、制裁を与えないでほしい。 

トニオを相棒に選んだアレスは、裏切り者として噛殺される可能性があるから。


どうか、アレスとその家族を守る為に自分を憎んでほしい。


(すまんな、アレス。そなたと出会えて幸せだったよ。達者でな)


目を閉じて覚悟を決めたが、予想していた衝撃は来なかった。

反射的に目をひらけば、8メートルくらいの死屍竜(アンデッドドラゴン)が、トニオを守るように着地していた。


「な……死屍の……ドラゴン?!」


ワイバーン族は、上位種のドラゴン族を慕い、尊敬している。

同族だけでなく、ドラゴンの死屍(アンデッド)まで現れたのだ。飛竜たちの怒りは、限界を超えた。


しかし、その鞍から飛び降りた青年と女は、襲いくるワイバーンたちを、軽く掌拳で吹き飛ばした。


「スゥ、後衛を頼む」


「はい」


青年は、影のように従う女に命じると、まるで遊んでいるみたいにワイバーンたちを翻弄しはじめた。怪我をさせないよう、細心の注意を払いながら。

トニオの動体視力でも、彼らの動きを追うだけで精一杯だ。

じわじわと、辺境軍やシギ軍とワイバーンたちとの距離が遠のきはじめた。


驚くべきことに、青年の表情は凪いでいた。ワイバーンの命を駆ることなく、鮮やかな峰打ちで気絶させてゆく。

アンデッドドラゴンに騎乗してきたということは、彼らはドラゴンライダーに次ぐ精鋭、竜殺しの「ドラゴンスレイヤー」なのだろう。


予想外の強敵に、ワイバーンたちも怯んだ。

やがて、飛竜たちは円陣を組む様に人間たちを取り囲み、「ギッ!ギッ!」と警戒音を発しはじめた。

闇雲に攻撃を仕掛けても、成果があがらないと察したのだろう。


ワイバーンたちとの充分な距離を確認して、男はトニオの前に膝をついた。

戦に敗れた将の、首を差し出す所作だ。

予想外の助太刀に、トニオは目を見開いた。


「そ、そなたは……?」


「初に目にかかる。余は、帝国皇帝妃唯一の嫡男にして15皇子。皇太子オケアノスである。サンドライト辺境軍トニオ・アリスト大将軍とお見受けするが、相違あるか?」


「いかにも。私がトニオだ。敵将が何用ぞ?」


満身創痍ながら、トニオは部下たちを護るように前に出た。

オケアノスの目にはその姿がたいそう好ましく映り、無意識に微笑みを浮かべた。


「余に、サンドライトへの敵意は在らぬ。大恩あるフレデリック殿下より、書状を賜った。受け取られよ」


張り上げているわけでもないのに、よく通る声だ。

辺境軍はもちろん、帝国軍の残兵も息を呑み、ざわめいた。


トニオとしては、思うところは山ほどあるが、懐から王太子の宝剣を出されたら、検めるしかない。


古ぼけた羊皮紙に綴られた手紙は、まちがいなくフレデリックの筆跡だった。

未知の妖術に操られていたオケアノスが、それを排除して自我を取り戻したくだりが、簡潔に記されている。

ようは、サンドライトの王太子が、帝国の皇太子を救い出したのだ。


『停戦と献帝女廃止の切り札ゆえに、決して殺めるべからず。自己嫌悪が強く、自害しかねぬ。保護を命じる』で、締められていた。


「殿下……」


それは得難い美談であった。

フレデリックを「大恩ある」と評し、尊敬を隠さないこの皇太子は、間違いなく停戦の切り札になるだろう。

だが、ワイバーン族から人類丸ごと敵認定されているこの戦場で、どうしろと???

兜の中で、トニオの頭髪の一部がごそっと抜け落ちた。


絶句するトニオの手から書状をひったくり、「人たらしの人でなし、無茶振りが過ぎるし!!」「国際問題すぎて、辺境の手に余るし!!」と、顔芸をしてしまう長兄アルマリオと次兄イルジーノは、悪くない。

間違いなくふたり共、フレデリックの治世でぶん回される羽目にあうだろう。


「安心されよ。そなたらに迷惑はかけぬ」


空が赤く染まるほどのワイバーンに囲まれながら、オケアノスの言葉には、不思議な安心感と、説得力を人々に与えた。

恐慌を来していた帝国軍人たちは平伏し、サンドライト軍もうっかりすると敵将に跪きそうなほどに。



オケアノスはゆるりと立ち上がり、ひしめくワイバーンの前で右手をあげた。


「オケアノス様」


オケアノスは、こんな状況でも表情の変わらないスゥに、穏やかに視線をやった。


「スゥ。これより、ワイバーンへの攻撃を禁じる」


「………御意」


辺境軍もシギ軍もーーー否、全ての人類を守るように、ワイバーンたちに歩み寄るオケアノス。長い黒髪が、サラサラと風に踊る。


【聞け。ここにいる戦士たちは、そなたらの仲間の死を陵辱した大罪人にあらぬ。帝国シギの民とサンドライト辺境の民。湿原の空を愛する、そなたらの仲間ぞ】


オケアノスは、ワイバーンたちの前で剣を捨て、優雅な表情でそう語りかけた。


「な、何を言ってるんだ、あの皇子」


「いや、言ってることはわかるんだが……?」


言葉はわからないのに、意味は伝わる。それはそれは不思議な言語だった。


「もしや、皇語では……?!」


トニオは戦慄した。

サンドライト人や帝国人といった人類はもちろん、竜や幻獣にも通じるという『皇語』。

『皇語』を話せる人間は、選ばれし帝国皇帝か、教皇のみ。習うのではなく、天啓のように「突然解る」ものらしい。

天が認めた、人類の頂点のみに与えられるという言語。資格を持つ帝国皇帝や教皇でさえ、全員が取得できるものではないと、伝え聞いている。


なのに、この男が口にすることに、何の違和感もなかった。

むしろ、かつて戦ったアーチラインやヨアンから聞いた人物像の方が、男と一致しない。


【誇り高きワイバーン族よ。聞け。飛竜の屍を弄ぶは、人類の総意ではない。むしろ、そなたらの向かう方角には、それを憎む人々が暮らしている】


穏やかだが、暁の湿原によく通る低い声。怒り一色だったワイバーンたちの表情に、困惑が広がってゆく。


「怒れるワイバーンたちが、耳を傾けるとは。これほどの御仁に恩を売るとは。フレデリック殿下……」


トニオの絶句も無理はない。

だが、その畏敬と安寧は、オケアノスの次の言葉で一変する。


【そなたらの同朋に屈辱を与えたのは、余である。余の命令に臣下が従ったまで。余は人類で最も古き血を引く皇太子なり。この首を持って、そなたらの怒りを鎮めてほしい】


「ちょ、待たれよ!!」


「オケアノス殿?!」


焦り、ざわめく戦士たち。

だが、オケアノスは辺境を目指した瞬間から、こうすることを決めていた。

フレデリックに反対されても、スゥの献身を裏切っても。


「ギィ!!」


「ギィイイ!!!」


一度は鎮まりかけたワイバーンたちが、一斉に警戒音を鳴らし始めた。酷い不協和音が、戦士たちの聴覚を激しく苛む。


「オケアノス様……どうし、て」


控えていたスゥの両目から、涙が溢れ落ちた。

表情は変わらないのに、涙だけボロボロ溢れて止まらない。


「これが余の幸いぞ? スゥには生きて殿下に報告してもらいたいのだが」


「嫌です」


「ならば、共に償うか?」


「嫌です! 私が、私がキミさまを、ルス議会を唆して、死屍騎士団を作ったのです! オケアノス様どころか、神堂穂成さえ命じてない!! 全て、私の罪です! お願いです! 私の罪を、奪わないでくださいっ……!!」


平伏し、額を擦りつけて泣くスゥは、惨めだった。

地底泉の戦いで鎧はボロボロだし、顔も体も湿原の土で汚れている。だけど、オケアノスにとっては、世界で一番美しい女性だ。


「わかっておらんな。そなたの罪は、余の罪ぞ?」


オケアノスは半分だけ振り返って、初めて「嫌です」と言った忠臣に心からの笑みを向けた。


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