終わりに 『絶歌』現象を考える
さて、ここまでのわたしの考察はすべて、『絶歌』の著者が酒鬼薔薇聖斗だった場合に意味のあるものです。『絶歌』ゴースト説が真実だったなら、前段までの考察は無に帰すわけです。
しかし、ここからのお話は『絶歌』がゴーストによる作品だったとしても意味を成す考察です。
わたしが考えたいのは、『絶歌』の発売、という現象についてです。
まず見受けられたのは、『絶歌』を買わないと表明しているのに中身について評論する、または『絶歌』の論評を読んでそれを拡散する方が一定数いる事でした。そういう人たちは、『絶歌』が消費される現実を批判する一方で、『絶歌』そのものに並々ならぬ興味を持っている人々といえましょう。
また、『絶歌』について倫理的な問題を述べておられる方が多かったのも印象的です。意地悪を言うわけではないのですが、かつて英国人英会話教師を殺害し逃亡した市橋達也受刑者が遺族の許可を取らずに手記を発表した時、この手の議論がほとんどされなかったのと比べると印象的です(ちなみに市橋受刑者は最初からこの印税すべてを被害者遺族に寄付する形を取っていましたが、遺族が受け取らなかったことにより慈善団体への寄付へと切り替えています)。
さらにもう一つ上げることができるとすれば、一定数の人々が『絶歌』について出版の意義を問い質していることです。わたしに言わせてもらえば、出版の(=そのテクストが存在する)意義なんてものは読者一人一人が見つければいい(見つからないなら見つからないでそれはそれでいい)ものですし、今日的な意義とは無関係なところで将来新たな意義が見つかることだってありえるはずです。しかしそういった議論は「倫理」なる錦の御旗を振り回す人々によって封殺されかかっています。
まあなんといいますか、わたしの目に付いたのは、とにかく「倫理」という棍棒を振り回して殴りかかってくる大人が多いということでした。あまり性格のよろしくない筆者としては、「あんたら、いつからそんなに倫理的な存在にクラスチェンジしたんだよ」といぶかしんだものです。
未だに、酒鬼薔薇聖斗は我々の社会にとっての脅威なのです。
こういうことを書くと猛烈に批判されてしまうかもしれませんが、これは恐らく事実です。
でなくば、『絶歌』の発売から今日に至る大騒動は起こっていません。市橋達也受刑者の手記を見てください。これほどの大騒ぎにはなっていません。これは、あの酒鬼薔薇聖斗だからこそ起こった社会現象だと言えます。
そして、『絶歌』を読んだわたしのような人間も、読まないと表明している人々も、他人の評論を盛んに拡散している人々も、この件について憤っている人々も、「倫理」を振り回して無双している皆さんも、そして、この小稿を読んでいるあなたも。酒鬼薔薇聖斗の影に恐れおののいている人間の一人なのです。
この本の意義について答えるとするなら。わたしはこう答えます。
「酒鬼薔薇聖斗が未だに社会を混乱させるアイコンであるということを世間に示したという意義があった」と。
そしてその上で我々がやらねばならないのは、少年犯罪のアイコンとして未だに機能している酒鬼薔薇聖斗という記号を、社会の側がどうやって無力化し、抹殺していくかを考えることです。そして、そうやって彼の影響力をゼロにする方策が見つかれば、もしかしたら彼の後に現れるかもしれない社会的脅威の影響を削ぐ教訓を得ることができるかもしれません。少なくとも、彼のように公称25万部を刷るようなことにはなりませんし、その結果元犯罪者がその事件の内容を本に書いて大儲けを狙うという「倫理的に」問題ある現象を防ぐことができるようになるでしょう。
そして何より、目立ちたがり屋で自己承認欲求が強いことが推測される彼にとって、それが何よりの社会的な制裁となることでしょう。