第9話 刃のない夕食
「それ、切れますか」
フィエナが、硬いパンを持っていた。
ゴルヴァンが腰へ手を伸ばし、エイルは椅子を引いた。
脚が床へ擦れ、大きい音を立てた。
二人がこちらを見た。
「鞘ごと渡す気はねえよ」
ゴルヴァンが言った。
腰から抜いたのは、短い食事用の刃物だった。
十月二日の夜、三人は水車小屋にいた。
セイルから川沿いに下った、村の外れだった。
昨日は畑の端にある物置で夜を越した。借りた代金を払う時、持主に名を聞かれた。
エイルは、自分の名を言った。
フィエナの名までは、聞かれる前に出なかった。
そのことを、少女は見ていた。
何も言わなかった。
今日は、粉挽きの仕事が終わってから、床を借りた。
水車の音は、まだ続いている。
宿代の代わりに何でもするという話にはしなかった。床代を払い、夕食の麦を別に買い、明日の朝には出ると約束した。
追ってくる人がいることも、持主へ伝えた。
「揉めたら、うちで隠したなんて言うなよ」
持主は、川の下流へ向かう道を教えてくれた。
泊めてもらう分の、約束だった。
卓は、入口が見える壁際にあった。
エイルがそこへ座ると、ゴルヴァンは窓側へ行った。フィエナは、鍋のある炉の近くへ座った。
ゴルヴァンは腰の剣を外し、窓台の下へ立てかけていた。
ゴルヴァンが、パンを台の上へ置く。
刃を入れる前に、エイルが言った。
「割れば、いいでしょう」
「こいつ、石かってくらい硬いぞ」
「なら、粥へ入れて」
ゴルヴァンが、手の中の刃を見た。
エイルも見た。
この男は今、剣を抜いたのではない。
そう言い直しても、卓の上に刃があると、自分の右手が落ち着かなかった。
ゴルヴァンは、パンを布で包んだ。
肘で体重を掛ける。
大きい音がして、二つに割れた。
「これでいいか」
「ええ」
「よし。今度、切れねえパンを出されても、俺に文句言うなよ」
ゴルヴァンが刃物を畳み、窓の台へ置いた。
手が届く場所には、椀と匙だけになった。
フィエナが、鍋の蓋を開けた。
「火、止めますね」
湯気が、顔の前を通る。
借りた麦と、自分たちの袋に残っていた根菜が煮えていた。
ゴルヴァンは、割ったパンを三つの椀へ分けた。
自分の椀へ、大きい方を入れかけ、フィエナを見た。
「どれくらい食える」
「これくらいで」
少女が、指で量を示す。
「じゃあ、エイル」
エイルは椀を押し出した。
自分で盛ればいいのにと思った。
ゴルヴァンは小さい方のパンを入れ、次に大きい方の端を折って足した。
食べる量を、まだ知らないからだった。
十年後には、何も言わずに同じ量を渡してきた。
エイルは、パンが粥へ沈むのを見ていた。
「包帯を、洗ってもいいですか」
フィエナが、食べ終わる前に聞いた。
「持主へ、干す場所を聞こうと思って」
「手持ちは、もう少ない?」
エイルが聞くと、少女は包みを開いた。
畳んだ布が何枚か。小さい薬包。欠けた櫛。
院から出る時に持っていたのは、それだけだった。
「院の物を、持ってきたことになるのかもしれません」
フィエナが言った。
「薬を買うお金は、あとで働いて返せます。でも、この包帯は」
「返す物と、そうでない物は、窓口で聞きましょう」
エイルは答えた。
「あなた自身まで返す、という話にはしません」
少女は、一度頷いた。
それでも、包みを閉じるのは慎重だった。
ゴルヴァンが椀を置いた。
「明日、どこへ行く」
「まず、川下の宿駅へ。ここに留まって、馬車を待つわけにはいかない」
「俺は分かる。こっちは」
ゴルヴァンがフィエナを見る。
エイルが答えるより先に、少女が言った。
「お二人についていくしかない、とは、思いたくないです」
言葉を選んでいた。
「でも、いま、知っている場所へ戻ったら、また同じ馬車に乗せられます」
「紹介した薬屋へ、聞けます。別の施療所も」
エイルは言った。
「ただ、書類を扱う窓口まで、一緒に行ってもらえれば」
そこで切ると、フィエナが続きを待った。
「あなたの言葉が必要です。俺が控えを見せるだけでは、本人が望んでいたと言われる」
フィエナは、膝の上で掌を開いた。
「言いたいです」
エイルを見た。
「売られたみたいだと、聞いた時に、すごく嫌だったこと」
「その先は、そこで考えましょう」
エイルが言うと、ゴルヴァンが少し笑った。
「俺の時は、六か月先まで書いたくせに」
「仕事を頼める人には、先の仕事を頼みます」
「こいつには頼まねえのか」
エイルは、フィエナの手を見た。
鍋をかき混ぜる匙を持っている。
彼女が治療で指を曲げる時、自分の腹まで動けなくなる。さっきから、そこを見ないようにしていた。
「今、決める必要はない」
エイルは、二人へそう言った。
自分のことでもあった。
フィエナが、匙を置いた。
「じゃあ、まず、何か手伝わせてください。食べさせてもらって、守られるだけは嫌です」
「治療したのは、お前だろ」
ゴルヴァンが言った。
フィエナは、エイルの頬を見てから、少し口元を緩めた。
「傷は、もう乾きましたか」
「触らなければ」
「触るから、かさぶたが取れるんです」
エイルは上げかけていた手を下ろした。
ゴルヴァンが吹き出した。
フィエナも笑った。
エイルは、笑いの終わる時刻を待った。
話は、包帯を干す場所へ移っていった。
鍋を持ち上げようとしたフィエナへ、ゴルヴァンが手を出した。
「重い方は、俺が持つ。水の所、教えてくれ」
フィエナが、取っ手から指を離す。
ゴルヴァンが受ける。
その手の動きが、一瞬、ずれた。
小瓶の栓が開く。
指が、手首を支える。
聞こえています、と言う声。
エイルは、卓の縁を掴んだ。
「エイル?」
フィエナが振り返った。
鍋は、ゴルヴァンの手にあった。
自分の腕に光はなかった。
「何でも、ありません」
息を吸う。
粥の匂いがした。
甘い薬の匂いではなかった。
二人が、外の洗い場へ出た。
エイルは、しばらく動かなかった。
卓の上には、パン屑が落ちていた。
ゴルヴァンのいた場所だけ、多い。
皿がなくても、食べた後は分かった。
エイルは、布を取って卓を拭いた。
名簿を出そうとして、戸の方を見た。
開けたままだった。
外で、フィエナが水の冷たさに声を上げた。ゴルヴァンが、鍋を落とすなよと笑った。
エイルは名簿へ触れた手を戻した。
今は、ここで開かない。
代わりに、明日の宿駅までの道を確かめようと、窓へ寄った。
腕が、熱かった。
最初は炉に近づきすぎたと思った。
袖をまくる。
丸い痕の、真ん中だった。
エイルは、その場所へ右手を当てた。
火災の日に感じたのと、同じ熱だった。
内ポケットから石を出す。
ひびのある灰色の面は、光っていない。
窓の外を見た。
川がある。その向こうに、木の陰がある。
道には、一人、歩く男がいた。
荷を背負い、水車小屋へは目を向けず通り過ぎた。
あの人なのか。
そもそも、人が原因なのか。
エイルは石を袖の内側へ入れた。
ゴルヴァンが、空の鍋を持って戻った。
エイルは彼の腕を見た。
何もなかった。
「外に、誰かいましたか」
「川へ来る奴ならいたぞ。洗い物だろ」
「知らない人も?」
「ここじゃ、全員知らない人だ」
ゴルヴァンは、戸を振り返った。
「追手か」
エイルは、すぐに答えられなかった。
熱からは、何も分からない。
顔も、声も、名前も出なかった。
フィエナが戻り、干す場所を借りられたと言った。
エイルはそちらを見て、頷いた。
「今夜は、交代で起きていましょう」
ゴルヴァンが真顔になった。
「何を見た」
「見てはいません。だから、確かめたい」
嘘ではなかった。
何を感じたかは、言わなかった。
夜半、腕の熱は消えていた。
エイルは入口へ背を向けず、卓の横に座っていた。
毛布の中で、フィエナが眠っている。
ゴルヴァンは、窓際の剣を自分の手元へ戻していた。
もうすぐ、見張りを替わる。
エイルはその男を起こすための、短い呼び方を考えていた。
隊長、と呼べる人間は、ここにいなかった。




