第8話 境界の外へ
包帯が、まだ終わっていなかった。
エイルは戸の外で、少女の背を見ていた。
約束した時刻は、もう過ぎている。
中庭の向こうで、出発を告げる小鐘が鳴った。
「フィエナ」
小さく呼ぶと、少女は頷いた。
手は、止めなかった。
十月一日の朝、施療室には、一人だけ患者が残っていた。
昨日のうちに連絡した三人のうち、二人は町の薬屋へ向かった。別の治療師が、院の外で診ると引き受けてくれた。
もう一人は、隣家の人に支えられて、こちらへ来た。
足の悪い老人だった。
道を間違えたのではない。
急に場所を変えろと言われても、いつもの道を行く方が怖くなかったのだ。
フィエナはその人を見つけると、施療室へ戻った。
「私が、引き継ぐ所まで連れていきます」
そう言って、古い包帯を解いた。
エイルは、中庭へ目を戻した。
裏門の馬車には、もう布の束が積まれていた。
ハーデンの姿は、まだなかった。
ゴルヴァンは裏門の外にいる。
薬屋から借りた手押し車で、空の薬箱を取りに来たことになっていた。
中庭を抜け、施療室の老人をその車へ乗せる。
正門の方へ戻すと、移送の担当と鉢合わせる。だから、荷を出す裏門を使う。
その後、川道を下って、薬屋の横口へ。
昨日、フィエナ自身が場所を確かめた。
薬屋の治療師は、孤児院を辞める手続までは代行できないと言った。
エイルも、それは約束していなかった。
まず、本人の了承のない馬車へ乗せさせない。
その後で、持ち出した控えを、聞いてくれる窓口へ出す。
この先の全部を説明したら、フィエナが残ると言うかもしれないと思った。
それでも、聞かれた範囲には答えた。
「これ、持っていてください」
少女が、患者の家の人へ、塗り薬を渡した。
「途中で痛んでも、ここを強く押さえないで。次の先生にも、そう伝えてください」
老人の膝の下へ、丸めた布を入れる。
包帯を留め、指の色を見てから、ようやく顔を上げた。
「行けます」
エイルは肩を貸そうとした。
老人の体重が掛かり、膝が折れかけた。
フィエナが反対側を持った。
自分だけで運べるつもりだったわけではない。
だが、彼女に助けを借りている姿を、ゴルヴァンに見られたくないと思った。
戸の敷居を、二人で越える。
中庭の端で、足音が止まった。
「セーン」
ハーデンだった。
奥の回廊から来て、施療室へ戻る道の前に立った。
「どこへ運んでいる」
「町の治療師へ、お願いしました。ここは、明日から代わりの人がまだ」
「その話は後でいい。乗れ」
男が、馬車を指した。
エイルは老人を壁際の腰掛けへ下ろした。
家の人が隣へつく。
その一動作の間に、男はフィエナの腕へ手を伸ばした。
エイルが間に入る。
「本人は、まだ承諾していません」
「お前に聞いていない」
ハーデンはエイルを押し退けた。
床の縁へ足を取られ、エイルは片膝をついた。
剣を使う相手でさえなかった。
裏門で、ゴルヴァンが声を上げた。
「馬車を出すなら、先にこっちを通せ」
車を引く男と揉めていた。
フィエナの方へは来られない。
老人を置いて、彼を呼ぶことも出来ない。
エイルは立った。
ハーデンが、護衛の男を二人呼んだ。
エイルは先に、患者の家の人へ言った。
「車が見えますか。裏門の、あれです。あの人へ、手を上げてください」
家の人は震えていた。
それでも、ゴルヴァンへ手を振った。
フィエナが、ハーデンへ言った。
「行きたいとは、言っていません」
「院で育てられた分を、どこで返すと思っている」
「お金の話を、私にはしていません」
「旅の客に何を吹き込まれた」
男の声が、大きくなった。
エイルは、フィエナの顔を見た。
少女は男を見ていた。
自分へ助けを求める目ではなかった。
説明を、まだ求めていた。
ハーデンはその目に答えず、護衛へ手を振った。
エイルは施療室の戸を押した。
「こっちへ」
フィエナを中へ通し、戸口へ指を置く。
護衛の一人が踏み込んだ。
肩が、見えない物へぶつかったように止まる。
エイルは、指先を枠へ押しつけた。
この一人が越えるのを、数秒だけ許さない。
相手が後退すると、力が軽くなった。
もう一人まで同時には止められない。
エイルは戸を引いた。
木が、向こう側の靴へ当たった。
「鍵」
フィエナが言った。
戸の内側に差さった、短い鍵を回す。
その間に、エイルは糸を解いた。
戸が叩かれた。
窓は中庭に向いていた。
鉄の細い格子が、下半分に入っている。
上は、子供が一人通れる幅だった。
エイルは椅子を持ち上げた。
足に力が入らず、片脚を床へぶつける。
フィエナが一緒に持った。
「先に、行って」
彼女へ言う。
腕を支えようとして、自分の手を引いた。
少女が自分で、エイルの手に足を掛けた。
エイルは受け止め、押し上げた。
フィエナが格子を越える。
外から、ゴルヴァンの声がした。
エイルが椅子へ上がる時、鍵の周りが裂けた。
護衛が戸へ肩を当てている。
急げば、窓から出られる。
だが、ゴルヴァンはまだ、老人の車を動かしているはずだ。
エイルは椅子を下り、戸へ指を戻した。
さっきと同じ枠。
同じだけ張れると思った。
糸は途中で切れた。
目が霞んだ。
戸板が内側へ割れ、木片が頬を掠めた。
エイルは咄嗟にしゃがんだ。
「エイル!」
窓から、フィエナが呼んだ。
格子の上に、手が見えた。
「もういいから、来て!」
エイルは椅子へ跳び乗った。
足をかけ、窓の外へ上体を出す。
背後で、戸が開いた。
踵を掴まれる前に、フィエナがエイルの手首を引いた。
強い力ではなかった。
エイルも枠を押し、外へ体を出した。
二人で中庭へ落ちた。
フィエナが、先に起き上がる。
エイルは手首を押さえていた。
そこには、光も何もなかった。
掴まれた指の跡だけが残っていた。
少女の手が、もう一度差し出される。
エイルは、その手を取った。
裏門では、ゴルヴァンが手押し車を細道へ出していた。
老人は布を敷いた台へ座り、家の人が横を歩いている。
「先、行け。川の方だ」
ゴルヴァンが言った。
追ってきた護衛の前へ、空の薬箱を倒す。
剣を抜く場所はなかった。
狭い門で、長い刃を振れば、車へも届く。
ゴルヴァンは男の腕を横へ払って、門の外へ出た。
「鍵、あるか」
フィエナが、まだ手に持っていた小さい鍵を見た。
施療室の鍵だった。
「違う。こっち」
ゴルヴァンが門の横棒を示す。
掛けるだけの留めだった。
フィエナが棒を抜き、三人が出た後、外側の金具へ渡した。
門が、一度大きく揺れた。
エイルは、そこへ魔法を足そうとしなかった。
もう張れない。
それを、ゴルヴァンへ言った。
「なら、走れ」
川道は、下りだった。
ゴルヴァンが車を抑え、フィエナは老人の膝の布を押さえた。
エイルは前を行き、薬屋の横口を叩いた。
受け入れると話した治療師が、戸を開けた。
「この方ですね。足は動かさずに」
説明が、始まった。
フィエナは息を切らしながら、巻いた包帯と薬の名を伝えた。
エイルは、路地の入口を見ていた。
この家へ追手を連れてきたことになる。
ゴルヴァンもそれが分かっているらしく、引継ぎが済むのを待ち、空の手押し車を壁へ寄せた。
「俺たちは出る。荷は後で取りに来る」
店主が頷いた。
歓迎されたまま、隠れて暮らせる場所ではなかった。
街の外れへ出てから、エイルは一度座り込んだ。
フィエナが、頬の傷へ布を当てた。
「痛いですか」
「大丈夫です」
「そういうことを、聞いたんじゃなくて」
少女の眉が寄った。
エイルは黙り、少ししてから答えた。
「痛い」
フィエナは布を濡らし直した。
ゴルヴァンが、後ろの道を見ていた。
エイルは上着の内側を確かめた。
金額と名前のある控えは、まだ入っていた。
そこにある名前の本人が、隣へ座っている。
助けたつもりでいた。
窓の上から来た手がなければ、今、自分はここにいなかった。




