第7話 まだ聖女ではない少女
少女は、名前を呼ばれるより先に立った。
白い上着の男が廊下を通っただけだった。
男が行き過ぎると、少女はまた膝をつき、患者の腕へ包帯を巻き始めた。
フィエナだった。
まだ、誰も聖女とは呼んでいなかった。
セイルへ着いたのは、九月二十九日だった。
ラグナから西へ向かう荷車は、十日かかった。二つの宿駅で箱の留め具を直し、エイルは組合へ送る完了票を受け取っていた。
借金が少し減った。
持ち歩く金は、それほど増えなかった。
ゴルヴァンは、その差を自分の紙にも書いていた。
途中の宿では、妹へ手紙を出した。書いた紙をエイルに読ませることはなかった。
薬代の送付票だけを、別に見せた。
エイルは、その手順に何も言わなかった。
セイルには、教会の建物が多かった。
尖塔のある本堂。隣の施療院。道を下った先の、背の低い孤児院。
フィエナが話した昔の西の町は、そのどれかだった。
エイルは、名を聞き回った。
街の子供を相手に、治療の上手い少女を知らないか聞くと、痣を作った男の子が、自分の肘を見せた。
「ここ、やってもらった」
「どこで」
「下の院。払わなくていいんだよ。薬は、別だけど」
エイルは、教わった坂を下った。
翌朝、孤児院の門の前に、荷物が積まれていた。
薬箱と、布の束。
ゴルヴァンが門番へ仕事を聞き、荷車から下ろす人手が足りないと分かると、二人で運んだ。
エイルは薬箱の軽い方を抱えた。
門から中庭へ入り、左手に礼拝室。その脇の細い戸が、施療室へ通じていた。
そこで、少女を見つけた。
フィエナは、患者の腕の包帯を巻き直していた。
「指、動かせますか」
患者が動かす。
「ここを押すと、痛い?」
小さい返事を待ち、少女が結び目をずらした。
手を急いでいなかった。
エイルは、その指から目を離した。
薬箱を置く音で、フィエナが振り向いた。
「あ、そこは濡れてます。台の上へお願いします」
エイルは置き直した。
「エイル・クロウといいます。仕事で、この町へ来ました。あちらは、ゴルヴァンです」
少女は二人を見比べ、自分も名乗った。
「フィエナ・セーンです」
「治療を、頼めますか」
「どこか、怪我を?」
少女は立ち、エイルの服へ目を走らせた。
血のある所を探していた。
「いえ。そうじゃなく」
言いかけて、何も用意していなかったと気づいた。
この人を探していた。
会えたら、どう言えばいいのか。
エイルは、自分の手首を背へ回した。
「治癒術師の同行を、頼みたいんです」
「私に、ですか」
フィエナが、困ったように笑った。
「こちらの仕事があるので」
来たばかりの二人へ、そう返した。
当たり前だった。
前の人生で一緒に旅をしたことは、相手がここを出る理由にはならなかった。
白い上着の男が、戻ってきた。
フィエナがまた立つ。
「セーン。手を止めて、こちらへ」
「はい、ハーデンさん」
彼女は患者に断ってから、男へ近づいた。
「明日の移送は、朝の鐘の前だ。私物をまとめておくように」
エイルは、薬箱の蓋を閉める手を止めた。
明日。
フィエナは、頷いた。
「分かりました」
「荷の控えは、ここへ。薬と布を分けて記載してくれ」
ハーデンが紙を置いた。
エイルとゴルヴァンへは、門番に礼を受け取れと言って去った。
施療室に、包帯を巻かれる患者だけが残った。
フィエナは、患者の所へ戻った。
エイルは、紙を見た。
薬箱には青い印。布の束には、同じ番号の小さい札。
控えの下端に、もう一つ、名前を記載した行がある。
フィエナ・セーン。
人数、一。
名前の隣に、金額があった。
「ここを出たいんですか」
エイルは聞いた。
少女が目を上げる。
「修道領の奥へ行くように、と」
「行きたいかを聞いています」
フィエナは、手元の包帯を見た。
「必要とされる場所へ行くのは、いいことです」
どこかで聞いたような返事だった。
エイル自身が、前の人生で何度も言った。
「今の質問の答えに、なっていませんよ」
口調が冷たくなった。
少女の指が、止まった。
患者が、不安そうに二人を見た。
エイルは半歩下がった。
「すみません。急に」
門の外へ出てから、ゴルヴァンが聞いた。
「あの子、欲しいのか」
エイルは顔を向けた。
ゴルヴァンは、施療室を振り返っていた。
「あれだけ診られるなら、旅には助かるけどな」
「物みたいに言わないでください」
「雇う話をしたのは、お前だろ」
エイルは黙った。
ゴルヴァンが、坂の上を指す。
「契約を聞くなら、あっちだ。荷の受け渡しの札があった」
エイルは頷き、先に歩いた。
輸送を扱う代書人は、本堂の前に机を置いていた。
荷を納めた二人として控えを見せると、受領の印を押してくれた。
エイルは、フィエナの名のある行を指した。
「この人も、荷の扱いなんですか」
「人の移送だよ」
「本人の署名がない」
「院の預かりの者だ。院が出す」
代書人は、別の紙を開いた。
輸送許可には、治癒奉仕のための赴任とある。
しかし、受け取る側へ請求する紙の方には、移送後に本人が離職した場合の違約金が書かれていた。
受領側が、少女を連れ戻す権利を持つ。
エイルは、同じ番号を確かめた。
「本人は、この内容を」
「院で説明しているだろう」
「だろう、ですか」
代書人が、目を上げた。
エイルは、紙から手を離した。
原本を奪って逃げても、事情の分かる人は増えない。
「自分たちの分の控えをください。荷の受取が、同じ紙に入っているので」
代書人は一瞬迷い、同じ番号の控えを一枚抜いた。
渡された紙に、金額と少女の名が並んでいた。
夕方、フィエナは中庭の井戸へ来た。
エイルは門番から見える場所で、彼女を待った。
隠れて会えば、何をされたか分からなくなる。
そう思ったのは、誰のためだったか。
少女へ紙を見せると、彼女は金額より下の文を読んだ。
「辞めたら、払うんですか」
「あなたが払うか、誰かが代わりに払うか。そのどちらかになる」
「聞いていません」
言ってから、フィエナは周りを見た。
「私が、聞き逃したのかもしれません」
「そうでなかったら?」
少女は答えなかった。
桶の縄を、握り直した。
「ここで、まだ診たい人は」
エイルは、問いを変えた。
フィエナが顔を上げる。
「います。明日の朝、包帯を替える人も」
「移ることは、その人たちに伝えましたか」
「今朝、私も初めて」
声が、小さくなった。
エイルは紙を畳まなかった。
差し出したまま、待った。
フィエナは長く見てから、自分で受け取った。
「今夜、説明を聞きたいです」
彼女はそう言った。
エイルの方を選んだのではなかった。
夜の鐘の後、裏門へ馬車が入った。
エイルとゴルヴァンは坂の下にいた。
御者が荷台へ鍵付きの小箱を入れ、ハーデンが受領票を渡す。
明朝の便に、付き添いの施療員はいなかった。
「話は、出来たんでしょうか」
エイルが言うと、ゴルヴァンは肩をすくめた。
「聞かなきゃ分からんだろ」
門へ戻ると、フィエナが立っていた。
小さい包みを抱えていた。
「今は忙しいから、着いてから聞くように言われました」
少女は、二人へそれを伝えた。
泣いてはいなかった。
「私、まだ、行きたいとは言っていません」
エイルは頷いた。
腹の中で、用意していた計画が動き始めた。
その手前で、フィエナが言った。
「でも、患者さんを置いて、逃げるのも嫌です」
エイルは、すぐには返事をしなかった。
明朝までに考えることが、一つ増えた。
「何人ですか」
「明日、来る人は三人です。一人は、足が悪いので、いつも隣の人が連れてきます」
エイルは、施療室までの道を思い出した。
正門を入って中庭へ。礼拝室を左に見て、細い戸へ入る。
フィエナが裏門へ向かうなら、患者は、その反対から来る。
出発の鐘より先に、連絡を回す必要があった。
「三人へ話すことは出来ます。明日の手当てを、ほかへ引き継げるかは、今から聞きましょう」
フィエナが、少しだけ息を吐いた。
「ちゃんと、診てもらえる所がいいです」
「俺が決めて、安心だと言っても、分からないでしょう。場所を聞いて、あなたが確かめてください」
ゴルヴァンが、二人の顔を交互に見た。
「それなら、早く動こうぜ」
エイルは頷いた。
選んだ後の行き先には、自分の隣を用意するつもりだった。




