第5話 助ける時刻
まだ、立っている。
エイルは通路の角から、ゴルヴァンの背中を見ていた。
壁へ押さえつけられているが、膝は折れていない。相手の胸元を掴み返す力も残っていた。
今、出れば。
その先を考え、動かなかった。
九月十五日の夕方、用具口は開いていた。
エイルは昼の手伝いを終え、帰ったことになっている。夕刻にもう一度入ったのは、テムロに呼ばれたからではなかった。
金属を打つ短い音が、拘束房の方から聞こえた。
「昨日の男を逃がしたな」
低い声だった。
ゴルヴァンの返事は、聞き取れなかった。
別の男が、肩を殴った。
ゴルヴァンの手が胸元を離れる。
エイルは倉庫の戸へ、指を置いた。
ここから奥の拘束房までは、数歩ある。
間に戸はない。
走っても、今の自分では一人も殴り倒せない。まず相手をこの倉庫の戸口まで引き出し、一人を止める。ゴルヴァンが動けば、もう一人を押さえられる。
出る理由ならあった。
剣士を探していた。呼びに来た。それでいい。
エイルは、自分がそう言う場面を、頭の中で一度作った。
そして、まだだと思った。
ゴルヴァンは、自分一人で抜けられるつもりでいた。
助けに入っても、邪魔をするなと言われるだろう。
薬屋の時と同じだ。
帰れ、と。
もう少し困れば、その声も変わる。
エイルは、指を木から離さなかった。
心臓が速く打っていた。
怖いから待っているのではない。
そう言い聞かせた後で、怖くないわけがないとも思った。
あの男に近づき、剣の届く所へ入る。こちらを知っていなくても、ゴルヴァンの右手は、エイルの喉へ届く長さを知っている。
あと一度、殴られたら。
それなら、声をかけても、追い払えない。
階上から、鐘が二つ鳴った。
用具を通す時の合図だった。昨日、テムロが、鳴ったら戸の前を空けろと教えた音だ。
エイルは、階段へ目を向けた。
人が来る。
今、上へ知らせれば、係が降りてくる。殴っている男たちも、人目を避けるだろう。
ゴルヴァンを助けられるかもしれない。
だが、助けたのが自分一人ではなくなる。
その考えが浮かんだことに、少し驚いた。
驚いたまま、消さずに置いた。
鐘の音が消えるまで、指先を木へ当てていた。
階段の方で、鍵が鳴った。
テムロだった。
エイルの立つ倉庫の反対側、通路の入口へ、木台を引いてきた。
こちらを見つける前に、奥の男たちを見た。
「何をやってる。荷を下ろすんだ、通路を空けろ」
「後にしろ」
「上に言われてる。ここの柵もどかすんだよ」
テムロが倉庫の戸を開けようとした。
エイルは咄嗟に、内側へ引いた。
戸が一度揺れた。
「誰かいるのか?」
返事をすれば、ここにいることが分かった。
そうすれば、もう待てない。
エイルは戸を離した。
だが、声を出さなかった。
テムロは、つっかえた物があると思ったらしい。木台を横へ動かし、倉庫の脇へ置いた。
高い棚の端が、通路へ張り出していた。
昨日見た、壊れた柵の束が、まだ載っている。
ゴルヴァンが、相手を突き飛ばした。
男が後ろへよろけ、木台へぶつかった。
テムロが反射的に支えた。
上で、硬い音がした。
「上!」
声が出たのは、その時だった。
棚が、壁から剥がれた。
テムロが頭を抱えて屈んだ。柵の端が落ち、木台を弾き、その脚が男の右膝を横から押した。
短い叫び声がした。
エイルは戸を押し開けた。
遅かった。
テムロの足が、不自然な向きに残っていた。
次に落ちた板が、通路を斜めに塞いだ。
奥にゴルヴァンと二人の男。
手前にテムロ。立っているエイル。
粉塵で、灯りが黄色く滲んだ。
「動くな」
ゴルヴァンの声がした。
エイルに言ったのではなかった。
押し倒した相手へ背を向け、拘束房の戸を肩で支えていた。上から落ちた材が戸へ寄りかかり、開いた隙間を狭めている。
奥の男の一人が、ゴルヴァンの腰へ手を伸ばした。
剣を取ろうとしていた。
ゴルヴァンは肘で払い、片足を戸の下へ差し込んだ。
「手を出す暇があるなら、そっちを持て!」
エイルは、通路へ踏み出した。
落ちた板を跨ぐ。
足の裏に、釘の先が触れた。
痛みに身を引くと、後ろでテムロが息を詰めた。
「来るな。上、まだ」
天井の梁に、棚の金具が引っかかっていた。
梁そのものが折れるかどうか、分からなかった。
エイルは、戸の枠へ走った。
枠なら、見えている。
ゴルヴァンの肩の上へ、手を伸ばした。
「三つ数える間だけ、退いて」
「誰だ、お前」
「戸を、保つ」
糸を渡した。
全部を止めるだけの力はない。
落ちる棚も、梁も止められない。
この戸口を、今、人が通れる幅のままにする。
右の縦枠から敷居へ。左へ。
木の中で、硬い音がした。
「今!」
ゴルヴァンが一人を押し出した。
もう一人が続く。
一つ。
ゴルヴァン自身は、戸の下へ挟んだ靴を抜いていた。
二つ。
エイルの指が震えた。
木が、少しだけ動いた。
「早く」
ゴルヴァンがエイルの肩を掴み、通路へ引いた。
糸が切れた。
戸が、落下材の重さに押されて閉じる。
鈍い音が、すぐ背後でした。
二人で、床へ転がった。
ゴルヴァンの手が肩にある。
エイルは身を強張らせた。
刃ではない。
分かっていても、引き剥がそうとした。
「そこ、脚を置くな」
ゴルヴァンが言った。
折れた材から釘が出ていた。
彼はエイルを放し、先にテムロの方へ行った。
テムロは、木台に半身を押さえられていた。
上から落ちた柵が、その端を地面へ押している。
ゴルヴァンが材を持ち上げた。
「脚を、引けるか」
テムロが首を振った。
エイルは木台の空いている側へ回り、下を覗いた。
右足の踵が、台の脚の間に入っていた。
「こっちを、もう少し」
ゴルヴァンが持ち方を替える。
エイルは踵へ触れる前に、テムロの顔を見た。
「動かします」
「待て。膝が」
エイルは止まった。
今度は、すぐに止まった。
ゴルヴァンが腕だけで持ち続けている。額に汗が落ちた。
空いた隙間へ、エイルは折れた板を重ねて入れた。
荷重が板へ移ると、ゴルヴァンが一度だけ息を吐いた。
二人で踵の位置を少しずつ変え、膝を捻らずに木台をずらす。
テムロは声を出さなかった。
口を開けたまま、歯の間から息を吸っていた。
医者を呼んだのは、先に出た男の一人だった。
誰も逃げ出してはいなかった。
だが、担架を入れるまで、男たちはゴルヴァンへ指を向け、何をされたかを言い合った。
「あいつが先に、押したんだ」
ゴルヴァンが顔を上げた。
エイルは、その間へ立った。
「棚が壊れました。見ていたなら、そちらも話してください」
「見てたのか」
男が、目を細めた。
エイルの喉が詰まった。
テムロが、担架の上で手を動かした。
「奥の話は後だ。これ、鍵を」
エイルは、床へ落ちた鍵束を拾った。
握って渡そうとしたが、テムロは受け取れなかった。
「上の、係へ」
頼まれ、エイルは頷いた。
鍵の歯に、赤い物が付いていた。
握っていた指の血だった。
通路から出る時、ゴルヴァンが横へ来た。
「助かった」
エイルは返事が出来なかった。
「名前は」
「エイル。クロウです」
「エイル」
ゴルヴァンが、一度呼んだ。
薬屋で追い払った時とは、違う声だった。
欲しかったものだった。
「何で、あそこにいた」
エイルは、用具口の明るさを見た。
返事を一つ選べば、いい。
「仕事の話を、もう一度と思って」
「いつから」
テムロが、上で呻いた。
エイルはそちらを見た。
叫ぶ前に、声を出せた。
戸を押さえるより先に、止めに入ることも出来た。
「物が、落ちる少し前です」
言うと、ゴルヴァンは頷いた。
エイルを、疑わなかった。
階段の上で、エイルは鍵を係へ渡した。
手を開くと、掌に鍵の跡が残っていた。
石の痕とは、別の場所だった。
背後では、ゴルヴァンが医者の手伝いを申し出ている。
それを聞きながら、エイルは膝へ手を置いた。
自分の両脚は、どちらも動いた。




