第4話 闘技場の未来の英雄
ゴルヴァンは、負けた相手へ手を貸さなかった。
砂を払って背を向けると、闘技場の隅へ剣を差し出した。係が刃先を調べ、勝者の札へ赤い線を引く。
観客が、もう一度やれと叫んだ。
相手の男は、自分で起き上がった。
エイルは席の縁から、握っていた指を剥がした。
ゴルヴァンが剣を振る度に、胸を庇っていた。
ラグナの闘技場は、町の南端にあった。
高い壁の外へ抜ける門と、その手前の入場口が、同じ列に並んでいる。結界の外へ物見に行く客より、剣を見て帰る客の方が多かった。
エイルが着いたのは、九月十三日の昼だった。
商人から最後の箱の修繕代をもらい、泊まれる宿を聞いた。観戦料を払うと、財布はまた軽くなった。
金を使って、殺された記憶を見に来た。
そう思った途端、笑いそうになった。
手すりの向こうで、ゴルヴァンが次の相手を待っていた。
十八歳。
身体はもうエイルより大きかったが、知っている男より肩が薄い。左の眉の傷もない。
あの傷を作った戦いには、まだ二年ある。
次の男は、小さい盾を持っていた。
ゴルヴァンは正面から二度斬り、三度目を外側へ振った。
見覚えのある動きだった。
盾を引かせ、空いた脇へ踏み込む。
エイルは足元へ視線を落とした。
踏み込む足が、刃より先に動くと知っていた。
ゴルヴァンの右足が砂を蹴る。
盾を持つ男が後ろへ倒れ、剣が喉の前で止まった。
客席から、口笛が飛んだ。
ゴルヴァンは刃を止められる。
止めるべきだと思えば、あの距離でも。
エイルは、最後まで座っていた。
裏口へ回ると、用具を積んだ荷車があった。
車輪の脇で、男が鍵を探している。
「入れてもらえますか」
「客の口は向こう」
顔を上げもせずに言われた。
エイルは荷車を見た。木剣、折れた盾、皮紐。傾いた枠の下に、縄が挟まっている。
「縄を外すなら、荷を少し上げた方が」
「分かってる。手が二本しかないんだよ」
エイルは、枠へ手を掛けた。
男が、そこで初めて顔を見た。
「持てるのか」
「少しなら。重い方はお願いします」
二人で枠を浮かせ、男が縄を抜いた。
エイルの肘は、すぐに震えた。
「もういい。指、引け」
枠が戻る。
男は鍵束を持ち直した。
「何の用だ」
「剣士を探しています。ゴルヴァン・ロウという」
男の顔が曇った。
「金を貸してるなら、そいつに言え。俺に聞いても出てこない」
「借金の話では」
「なら、表で待て。ここは仕事口だ」
扉が閉じる前に、エイルは男の胸の札を読んだ。
テムロ・リード。
名を、覚えた。
薬屋は、闘技場から二筋先にあった。
ゴルヴァンが前の人生で話した通りなら、妹の薬は南の町では、ここでしか調合できない。
エイルは店先で乾かした根を見て、客の顔を確かめた。
細い少女が、包みを受け取っていた。
「これ、三回分ですか」
「五回分だ。一度に飲む量を間違えないで」
店主が細い匙を出す。
少女は自分で匙を握り、空の器の上で量を確かめた。
「次まで、何日空けられますか」
「減らして長く持たせるのは駄目だ。兄さんにも言ったろう」
エイルは、店へ入る足を止めた。
ゴルヴァンが言った、病気の妹。
病気の相手としてしか知らなかった子が、目の前で薬の量を量っていた。
少女が振り向いた。
「何か?」
「いえ。薬を、見に」
「だったら、ここを空けます」
少し横へ寄った。
弱々しく笑うのではなく、入口を塞いでいることを気にした顔だった。
ゴルヴァンは、少女が出る前に来た。
「ミュレ」
エイルの指が、上着の内側へ動いた。
石ではなく、名簿がある側だった。
ゴルヴァンがそれを見た。
「何だ、お前」
「試合を見ました。仕事を頼めないかと」
「客の相手まで、ここでしねえ」
剣は、腰にあった。
今は鞘の中だ。
エイルは、なるべくそちらを見なかった。
「護衛です。あなたを推薦した人が」
「誰だ」
言える名がなかった。
自分自身を出すことは出来ない。
「まず、話を」
「相手の分からん話を聞くほど、暇じゃない」
ゴルヴァンは店主へ金を渡した。
全部ではなかったらしい。店主が帳面を開き、残りを書く。
エイルが見ていることに気づくと、ゴルヴァンの手が帳面を隠した。
「帰れ」
その声に、腹が縮んだ。
エイルは半歩下がった。
ゴルヴァンは、怯えさせたと思ったのだろう。わずかに眉を寄せ、それ以上近づかなかった。
外へ出てからも、二人の声は聞こえた。
「兄さん、次の薬は」
「用意する」
「試合を増やすの?」
「それ以外もある」
ゴルヴァンが少女の歩く速さに合わせ、通りを曲がった。
エイルは、少し待ってから店へ戻った。
店主は帳面を閉じた。
「他所の勘定を聞きに来たなら、答えんよ」
「あの人に、仕事を頼みたいんです」
「だったら、本人に聞きなさい」
正しい返事だった。
エイルは、乾燥した根から目を離した。
「薬代は、仕事の報酬から直接払えますか」
店主が、顔を上げた。
「本人の了承があればな」
エイルは頷いた。
聞けたのは、それだけだった。
それでも、剣士の足を止める場所を、一つ見つけたと思った。
仕事を扱う組合の窓口は、薬屋と同じ通りにあった。
エイルは貼り出された札を読んだ。荷運び、護送、倉庫の封鎖。最後の札だけ、応募した名がなかった。
傷んだ防護戸を順番に保ち、職人が留め具を替える間を支える仕事だった。
長い結界を張れる者には、割の悪い細仕事らしい。
「これを受けるには」
「術の確認と、旅に出るなら護衛の名が要る」
窓口の女が答えた。
「隊を組んだ仕事なら、前払いの預託もできる。ただし、お互いの契約を見せてもらう」
エイルは札の番号を書き取った。
一人では受けられない。
ゴルヴァンを雇えれば、受けられるかもしれない。
雇うための金を、雇った後の仕事から作る。その順番を、窓口で確かめた。
女は、試験に通ってからの話だと念を押した。
翌朝、用具口へ行くと、テムロがいた。
荷車を一人で動かしていた。
エイルは黙って後ろを押した。
「だから、金なら出んぞ」
「仕事を探してるんです。車の枠を直す仕事をしてきました」
テムロは、荷車の傾きを見た。
「釘は打てるか」
「下手です」
「先にそれを言うなよ」
笑われた。
荷を戻すまでの手伝いだけ、認めてもらった。
階段は、用具口のすぐ内側にあった。
下へ降りると、長い通路が一本伸びている。右手に用具倉庫。奥には、鉄の横棒のある戸があった。
「あそこも、倉庫ですか」
「人を置く部屋だ。近づくな」
エイルは、テムロの足元を見た。
まだ、両足でしっかり立っていた。
「剣士を?」
「試合をすっぽかす奴もいる。借りた分を持ったまま、出ていこうとする奴もな」
奥で怒鳴り声がした。
二人の男が、一人を引きずってきた。
その後ろに、ゴルヴァンがいた。
引かれた男が、顔を上げる。
「お前も、同じ側だろうが」
ゴルヴァンは答えなかった。
男の手首を押さえ、戸の中へ入れた。
エイルは倉庫の陰から見ていた。
妹の薬のため。
名簿に書いた言葉を思い出しながら、閉じた戸を見ていた。
人が去ってから、テムロが空の台を運び始めた。
「見なくていい」
「ああいう仕事も、試合の代わりなんですか」
「それで帳消しになるなら、誰もここで働かん」
テムロが、床を指した。
「そっちの脚を持って。斜めにすると、上が当たる」
木台を運ぶと、倉庫の棚が軋んだ。
高い所へ、板と、試合で壊れた柵が重ねてある。
「危なくないですか」
「だから、下ろす。今日中に全部は無理だが」
テムロは上を見た。
エイルも見た。
あの下に、拘束房から出る人が来る。
足の向きと、戸の開く側を、頭へ入れた。
帰り際、壁の予定板を見た。
明日の夕刻、ゴルヴァンの名に、試合ではない印が付いていた。
テムロへ聞くと、答えが返らなかった。
エイルは、前回のゴルヴァンの言葉を思い出した。
逃げようとして、地下で殴られた。
あの時、もっと早く誰かが来ていたら。
いつの話だったか、正確には知らない。
明日が、その日かもしれなかった。
エイルは予定板から目を離した。
助ける理由は、もう用意してある。
あとは、助けられたと思わせる時刻だった。




