第22話 聖女の拘束術
フィエナの指が、光の輪を閉じた。
エイルの右手首が、椅子の肘へ留まった。
ほんの少しの力だった。少女の指が離れれば解ける。その説明は、先に聞いていた。
それでも、足が動かなかった。
床へ落ちた光を見て、椅子が地面へ留められていると思った。
ここにいるのは自分だけだ。
その考えが来た時、息の入る場所がなくなった。
三月二十日、王都の施療学校には、窓から暖かい光が入っていた。
エイルは、フィエナの実習に付き合うために来た。
冬の間に仮登録を受けた彼女は、監督する治療師の下で仕事を続けていた。今日は、傷を縫う時に腕が動かないよう保つ術を学ぶ。
エイルにも、術の通り方を見てほしいと言われた。
ゴルヴァンは荷の護送へ出ていた。
三日前、二人で署名し、護衛の契約を半年更新したばかりだった。
前の債務をもう一度ゴルヴァンに返させる条件ではない。これからの賃金と、引き受ける仕事を決め直した。
妹の治療に通う時間は空ける。別の仕事も、先に話せば受けてよい。
そこまで書いた時、ゴルヴァンが聞いた。
「お前の方は、俺と続けていいのか」
エイルは、少し待ってから頷いた。
信じたからだとは言えなかった。
離れられる前に紙を取り替えたい気持ちも、まだあった。
使者との二度目の面会には、オルセナが同席した。
ゴルヴァンは、本人に知らせない行動報告は引き受けないと伝えた。使者は、では薬の優先枠も一緒には約束できないと答えた。
ミュレの今の診療まで打ち切られたわけではない。
だが、足りない費用と、次の薬を待つ不安は、そのまま残った。
ゴルヴァンは宿へ戻り、次の仕事の日程を聞いた。
エイルは、断ったからもう揺れないと思うかと問われ、そんなことは分からないと答えた。
その返事で、二人は新しい契約へ署名した。
練習室には、椅子が三脚あった。
壁際に、道具を置く台。反対の壁には窓。
出入口は一つだが、戸は開いていた。廊下を通る人も見える。
エイルは、戸へ一番近い椅子を選んだ。
フィエナが、その位置へ机を寄せようとすると、担当の治療師が止めた。
「出る道は、空けておこう。慣れない術だからね」
エイルは、その声に少し気を緩めた。
道を塞がない人だった。
実習の前、治療師は、古い手当ての道具を見せた。
身体を押さえる帯と、脚を乗せる板だった。
「手が動くと、針の先へ自分から入ってしまうことがある。人の腕で押さえるにしても、押さえすぎれば別の所を痛める」
フィエナが、結び方を確かめた。
「術なら、全部止めるより、一つの方がいいんですか」
「その人が話せる所、伝えられる所は残す。楽だからと、全身を止めればいいわけではない」
エイルは、板の擦れた跡を見た。
この術に助けられた人も、いるのだろう。
それを考えられる間は、大丈夫だった。
最初の練習は、肘を机へ置く職員が引き受けた。軽く引き、止まったと告げ、光が解ける。
何も起きなかった。
次に、自分の名を呼ばれた。
術の形を知っておけば、次から怖くないかもしれない。
そう思ったのも、自分だった。
「手首だけ。痛かったら、すぐに言ってください」
フィエナが言った。
エイルは右腕を椅子へ置いた。
「ほかは、止めないんですね」
「はい。動いた方が危ない所を、一つだけ」
彼女の前には、図があった。
腕と椅子、その間に渡す光。
絵を見れば、分かった。
戸口に糸を張る自分の術とも、少し似ている。
同じではない。相手の身体へ直接働きかける治療の術だった。
エイルは指を開いた。
「どうぞ」
自分で言った。
淡い光が、手首へ回った。
フィエナの左手が伸び、右手がその手首を支えた。
光の色より、そちらが先だった。
同じ指の形。
同じ位置から来る声。
「動かさないでください」
エイルは、床を見た。
石ではなく、木だった。
分かっているのに、足首へも何かが回る気がした。
右手を引こうとする。
引けない。
「外して」
声が出たか、自分では分からなかった。
フィエナが顔を上げた。
「エイルさん?」
「外せ」
今度は大きい声が出た。
光が消えた。
エイルは立ち上がった。
膝が椅子の端に当たり、音がした。
フィエナが手を伸ばす。
エイルは振り払った。
触れてはいなかった。指が近づく前に、腕で空気を払った。
少女の顔が白くなった。
エイルは戸へ行った。
廊下の明るさが、ひどく遠かった。
そこまで歩いたはずなのに、途中で壁へ手をついた。
吸っても、息が入らなかった。
背後で椅子を動かす音がした。
エイルは振り向いた。
誰かが追って来る。
そう思ったが、治療師は椅子を壁へ寄せていた。
「通る人、そちらを空けて」
廊下の人へ声をかける。
エイルの前には立たなかった。
フィエナは、練習室の戸の内側で止まっていた。
両手を、自分の胸の前へ下ろしていた。
誰も、手首を取りに来なかった。
エイルは、腰を壁へつけた。
下へ座ろうとして、足を曲げる。
治療師が、少し離れた所へ屈んだ。
「触ってもいいかい」
「今は、無理です」
エイルは言った。
返事が出来たことに、自分が驚いた。
治療師は頷き、距離を変えなかった。
窓の向こうで、鳥が一度鳴いた。
廊下の端に、青い桶があった。
目に入る物を、一つずつ見た。
祭壇はない。剣もない。
椅子からは、自分で立った。
手首を持ち上げると、何も巻かれていなかった。
時間がたってから、水を置いてもらった。
自分で取った。
椀の底を、両手で支える。片方はまだ震えていた。
フィエナは、戸の所から動かなかった。
エイルは彼女を見た。
泣きそうな顔に見えたが、泣かれても、どうすればいいか分からなかった。
自分が許すまで待っているのか。
そう考え、頭を振った。
彼女は、言われて止まった場所にいるだけだった。
「痛く、したんでしょうか」
フィエナが聞いた。
エイルは手首を見た。
赤くなってもいなかった。
「痛みじゃ、ないです」
「術が、強すぎましたか」
「違う」
声が、また硬くなった。
フィエナは次を聞かなかった。
エイルは水を飲み、唇を濡らした。
あの地下室の話をすれば、説明になる。
だが、目の前の少女へ、あなたがやったと言うことになる。
まだ、何も知らない手へ。
「昔、動けなくされたことが、あります」
そこまで言った。
日付も、相手も言わなかった。
嘘ではない形で、肝心な所を隠した。
治療師は、実習を終わりにすると言った。
フィエナは、自分の図を片づけた。
エイルが椅子へ戻ろうとすると、彼女が聞いた。
「触る前に、どこへ、何をするか、もう一度言ってもいいですか」
エイルは頷いた。
「今日は、もうかけません。今度、もし練習を頼む時に」
彼女は付け足した。
エイルは、椀を台へ置いた。
「手を開いたら、止めてもらえますか。声が出ないかもしれない」
右手を開く。
フィエナも、自分の手を開いた。
「見えたら、すぐに解きます」
「見えなかったら?」
「別の人にも、見ていてもらいます。一人で大丈夫だと言わないようにします」
隣の部屋で、子供が声を上げた。
縫う手当てを受けるのを嫌がっていた。
治療師が、フィエナへ来られるかと聞いた。
少女はエイルを見た。
自分が行ってよいかを、確かめるような目だった。
エイルは、それを止めることが出来た。
自分をこんな状態にしたまま、次へ行くのかと。
言いかけた言葉を、椀と一緒に置いた。
「行ってください。ここで待っています。帰る時は、自分で伝えます」
フィエナは頷いた。
隣の部屋へ入り、子供の目の高さに座る。
何をするか説明する声が、開いた戸から聞こえた。
エイルは、廊下の長椅子へ移った。
手首は、まだ自由に動いた。




