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第2話 十六歳の手

 引かれた腕を、振りほどいた。

 掴んだ男が、驚いた顔をした。

 ザディクではなかった。

 修道院で荷運びをしていたバスロだ。頬が煤で汚れ、毛織りの上着の肩から煙が上がっている。


「エイル、走れ。西の戸が開いてる」


 西。

 顔を上げると、廊下の先に光があった。外の光だ。火に照らされた階段は、その反対側だった。

 エイルは胸を押さえた手を離し、走った。

 階段の上で、誰かが咳をしていた。


 戸口に、子供が二人いた。

 年上の方が、小さい子の服を引いている。だが、戸が閉じかける度に背を押され、二人とも同じ所で足踏みしていた。

 中庭から風が入り、扉を廊下へ押していた。

 エイルは枠へ指をついた。

 焼けた木の感触がした。上端の金具はまだ外れていない。

 ここなら張れる。

 左の縦枠から、敷居へ。そこから反対側へ糸を渡す。

 大きく張ろうとした途端、目の奥が白くなった。

 足りない。

 信じられず、エイルはもう一度、魔力を引いた。

 胸が痙攣した。


「どけ、俺が押さえる!」


 バスロが言った。

 エイルは糸を狭めた。戸全体を保つのをやめ、今、敷居を越えようとする小さい子の通る幅だけを残す。

 扉が止まった。

 一つ。

 二つ。


「行って」


 小さい子が転がるように外へ出た。年上の子が追う。

 三つ、と数える前に糸が切れた。

 バスロが扉へ肩を入れる。

 エイルは、その脇から中庭へ這い出した。


 膝をついた地面が、冷たかった。

 乾いた石と、土。井戸の水がこぼれ、靴の先を濡らしている。

 エイルは咳き込みながら、指を開閉した。

 三秒も、保たなかった。

 魔王城の門を一晩閉じた手だった。あの時は四か所の傷を押さえ、仲間が通る条件を残したまま、敵だけを止めていた。

 今は、子供一人だった。

 背後から逃げてきた人が、エイルの肩にぶつかった。

 よろけただけで、腕が上がらない。


「立つな。そのままでいい」


 バスロが濡れた布を投げてよこした。

 エイルは受け取れず、膝の前へ落とした。

 拾うために身を屈めた時、胸を刺された感触が戻った。

 布の下の服を引き上げた。

 傷がなかった。

 へその左に残っていた古い火傷も、ない。

 代わりに、痩せた肋骨の線が見えた。


 中庭の井戸脇へ、敷布が並べられた。

 エイルは自分で歩こうとして、二度転んだ。知らないうちに人へ両脇を支えられ、布の上へ座らされた。

 治療箱を持って来た女が、顔を覗き込んだ。


「エイル。目を見せて」


 世話役のネスラだった。

 髪に白い物が、まだほとんど混じっていない。

 エイルは彼女を見つめた。

 覚えている最後の顔より若かった。旅立つ時、ここまで白くなったと自分の髪を摘んで見せた人だ。


「今日、何日ですか」


「三日。九月三日よ」


「年は」


 ネスラが、手を止めた。


「煙を吸ったね。頭も打った?」


「年を、教えてください」


「四百十二年」


 楽の音はしなかった。

 中庭には、桶を回す声と、逃げてきた人の咳があった。

 エイルは、もう一度聞いた。


「四百二十二年ではなく?」


 ネスラの目が細くなった。

 否定する前に、彼女はエイルの額を触った。


「あなたは、十六でしょう。二十二年になったら、十年分、大きくなってるわ」


 自分が言った覚えのある言葉が、頭へ戻った。

 この程度の火事なら、明日から戸の直しで稼げる。

 強がってそう言ったのは、誰でもない、自分だった。

 その翌日、煙を吸った胸が痛くて、薪を一束も運べなかった。

 リト修道院の火災。

 院を出る少し前に起きた、秋の火事。

 十年前の、この日だった。

 エイルは、自分の手を見た。

 魔王討伐で割れた爪も、北の砦で指を挟んだ傷もなかった。そこにあるのは、薪で切った親指の白い痕だけだった。

 隣の布まで、手を伸ばした。

 空中へ線を引いても、糸は留まらなかった。枠も継ぎ目もない場所には、何も残せない。

 次に、椀の縁へ触れた。

 細い光が一周しかけ、半ばで消えた。唇を噛みそうになり、エイルは手を止めた。

 失敗を重ねれば、もう一度、廊下で倒れた時と同じになる。

 昔は、眠れば増える力を、いつも待ち遠しく思っていた。

 十年分を失った今は、明日の分まで引き出してしまいたかった。

 椀から指を離す。

 その一つの動作に、思ったより時間がかかった。


「剣は」


 口から出た。

 ネスラが聞き返す。


「俺の、装備」


「何の話?」


 そうだ。

 この頃は、何も持っていなかった。


 夕方になっても火は消えきらなかった。

 エイルは井戸の端で、薄い粥の椀を両手で持った。

 刃物はなかった。

 それを確かめている自分に気づいた。

 バスロが、屋根の焼けた方を見ていた。


「よく、あの戸を止めたな」


「止まっていません。途中で切れた」


「二人、出たろ」


 バスロはそう言い、手にできた水膨れを見た。

 肩の上着は、焼けて穴が開いていた。

 自分の術が切れた後、この人が押さえたのだった。

 エイルは椀へ目を落とした。

 粥の表面へ、煙の灰が一片落ちた。


「隣にいた、男の子は」


「どいつだ」


「俺より少し背が高くて、髪が短い。廊下にいた」


「北の棟の連中は、東の救護所へ連れてった。あっちは屋根が残ってるからな」


 エイルは顔を上げた。

 ザディク。

 名が浮かび、舌の先で止まった。

 火事の時、あの少年がここにいた。

 前の人生でも、そうだったのか。


 夜、院生の名を確認する札が回ってきた。

 そこに書かれた自分の歳は、十六だった。

 隣の子が眠ってから、エイルは起きた。

 バスロに止められ、焼けた建物へは入らないと約束した。戻れたのは、外壁の残った西廊下の入口までだった。

 地面に、欠けた皿が落ちていた。

 そのそばに、緑の布。

 包んで運ぼうとした時、誰かと手が触れた。

 エイルは額を押さえた。

 火事の直前のことを、思い出そうとした。

 古い棚が倒れ、品物が散らばった。何が貴重なのか分からず、床へ落ちた物を拾っていた。

 灰色の石。

 二つあった。

 片方を握った自分の隣で、もう一人が、残りへ手を伸ばした。

 少年は、名乗っただろうか。

 ザディクという名を、その場で聞いたのか、それとも後から記憶へ貼りつけたのか、分からなかった。

 ただ、二つの石を二人で持っていた。

 そこまでは、手の感触と一緒に戻ってきた。


 エイルは、動かしてよい瓦礫を一つずつ退けた。

 濡れた板の下に、灰色が見えた。

 拾うと、親指ほどの重さがあった。

 真ん中に、細いひびが入っている。

 その割れ目を見た途端、椅子へ縛られた手首を思い出した。

 同じ石だと思った。

 けれど、ここで拾った物が、あの地下にあった物と本当に同じなのか、確かめる方法はなかった。

 持ち帰り、布の上へ置いた。

 石を腕に近づけても、光らなかった。

 丸い痕は残っていた。

 昼には、そこが熱かった。今は、触れば自分の皮膚の温度がするだけだ。

 何が違うのかは分からなかった。

 エイルは、石を握りしめた。

 何も起きなかった。


 泣き声が聞こえた。

 敷布の隣で、小さい子が寝ぼけていた。

 母親を呼んでいる。火の中へ戻ろうとしたのを、誰かが抱えて出た子だった。

 エイルは手を伸ばしかけ、止めた。

 自分が今、どんな顔をしているか分からなかった。

 手を洗い、井戸から飲水をもらい、子供の横へ椀を置いた。

 その子は少し飲んで、また眠った。

 エイルは朝まで眠れなかった。

 目を閉じる度に、ゴルヴァンがこちらを見た。

 刃が入る直前の、目だった。


 翌朝、バスロが焼けた戸の採寸をしていた。

 エイルは横へ座り、折れた蝶番を見た。


「仕事があるなら、手伝います」


「昨日、倒れたろうが」


「木を運ぶのは無理です。枠なら見られる」


 バスロは返事をせず、短い尺を渡した。

 エイルは受け取った。

 重くなかった。

 誰があの自白書を書いたのか。

 なぜ四人は、自分の声を聞いていながら止まらなかったのか。

 それを問うための身体は、今、子供を一人通せるほどの力しか持っていない。

 エイルは戸の枠へ指を置き、もう一度、糸を張った。

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