第1話 祝勝式の地下
剣士ゴルヴァンは、抜いた剣の鞘を戸口へ立てかけた。
結界師エイルは、その手を見ていた。
野営の夜には、刃を拭き、油を引き、最後に鞘へ戻す。その手順を何百回も見てきた。今夜は、空の鞘だけが手の届かない所へ置かれた。
魔王を倒し、王都へ戻って三日目だった。
王都の祝勝堂では、頭上から楽の音が降ってきていた。床越しなので笛の高い音は消え、太鼓だけが肋骨に響く。
地下の部屋には、五人分の椅子があった。
エイルの椅子だけ、床へ留めてある。
「説明を頼めますか」
声を出すと、喉の奥が焼けた。討伐以来、胸の中に熱がある。薬を飲んでも引かず、大祭司の紹介した医師は、休めば落ち着くと言っていた。
説明がある。そう言って呼んだ隊長ザディクは、入口の脇で紙を持っていた。
「読み上げる」
「先に、俺に何をするつもりか」
ゴルヴァンが一歩進んだ。
エイルは膝を引こうとした。動いたのは右足だけだった。左の足首から、淡い光が椅子の脚へ続いている。
傷を治してくれた聖女フィエナの術だった。
彼女はエイルの左後ろにいた。左手を伸ばし、右手で、その手首を支えている。
「フィエナ。外して」
「動かないでください」
声は、傷口を縫う時と同じだった。
だから一瞬だけ、エイルは従いかけた。
「何をするのか、聞いています」
彼女の指が曲がった。
光は左足だけでなく、腰にも巻いた。
入口まで、七歩ほど。
ゴルヴァンの右を抜ければ、戸の枠へ触れられる。
枠に魔力の糸を渡すだけでいい。戸口を通る条件を変え、自分を一人だけ通す。その後で閉じれば、話を聞かずに逃げたと言われても、生きて言い返せる。
エイルは右手を椅子の肘から離した。
指先で、まず椅子と床の継ぎ目を探る。
その動きを見て、ゴルヴァンが剣先を下げた。
「手もだ」
フィエナが目を閉じた。
右手首へ、光が巻いた。
指が床へ届かなくなった。
「あなたに言われるのか」
エイルはゴルヴァンを見上げた。
彼の鎧の肩には、先日の戦いでできた裂け目が残っている。あの隙間へ敵の槍が入らなかったのは、エイルが境界を保ったからだった。
その時の手の震えも、まだ覚えていた。
ゴルヴァンは裂け目を隠さなかった。
「長くするな、ザディク」
それだけ言った。
戸に、黒い線が走った。
魔法使いヴェラが床へ片膝をつき、枠の下端へ指を置いていた。石の両開き扉が、閉じた位置で固まる。
彼女はいつも、退路を一つ残した。
研究所でも、雪の峠でも、たとえ誰かの計画が失敗しても戻れるようにしていた。
「外の兵は、入ってこないのか」
エイルが聞くと、ヴェラは顔を上げた。
「入れない」
「俺も、出られない?」
彼女は答えなかった。
代わりに、扉の隙間へ走る線が、もう一本増えた。
「エイル・クロウ」
ザディクが紙へ目を落とした。
「魔王との交戦中、敵性の力を自ら受け入れ、王国大結界への侵入を企てたことを認める」
「認めていません」
太鼓の音が、短く止んだ。
エイルの声だけが部屋に残った。
「俺は、そんなことを言っていない」
ザディクは読み進めなかった。
紙の下端に、署名が見えた。
ザディク・アスター。そのすぐ下にゴルヴァンの名。エイル自身の名を書く欄だけが、空いていた。
罫線の左端に、小さい二重の枠が印刷されている。
任務の報告書で見たことのない書式だった。
「それを、どこへ出すつもりですか」
「今は、その話をしている時間がない」
「あなたが呼んだんだ」
声が裏返った。
「何も言わず、ここへ来いと。俺は来た。なら、一つくらい答えろ」
胸の熱が、急に強くなった。
エイルは咳き込み、体を折ろうとして拘束に止められた。
床に落ちた汗へ、金色の光が映った。
左の壁に、低い祭壇がある。
さっきまで暗かった溝の中を、細い光が流れていた。
「また、熱が上がっています」
フィエナが言った。
エイルを見ているのに、エイルの顔より下ばかり見た。胸から腹へ、まるで、そこに数えられる何かがあるように。
「薬を」
頼んでから、違うと思った。
彼女の用意した小瓶は、椅子の後ろの台に置かれている。栓が開いていた。鼻に残る甘い匂いは、ここへ座る前に飲んだ薬と同じだった。
「フィエナ。俺は、まだ話せる」
彼女の喉が動いた。
「聞こえています」
「なら、聞いて。これを外してくれ。何が起きているのか、俺にも考えさせてくれ」
フィエナは唇を噛んだ。
腕の光は、緩まなかった。
エイルは、入口の鞘へ目を戻した。
ゴルヴァンが剣を納めるだけで、止まる。
フィエナが指を開くだけでもいい。ヴェラが戸を開ければ、上へ声を届けられるかもしれない。
四人を一度に説得しなくていい。一人でいい。
なのに、誰へ何を言えば、その一人になってもらえるのか、分からなかった。
十年間、一緒に生きてきた。
剣が折れた時も、熱で眠れなかった夜も、頼まれたことには、出来る限り応えてきた。
それを今、口に出すのが怖かった。
全部を並べても止まらなければ、自分の知っている十年間まで、ここで終わってしまう気がした。
ザディクが、右手の手袋を外した。
掌に、灰色の石があった。
親指ほどの大きさで、真ん中を、白い線が横切っている。
エイルは、それを知っていると思った。
なぜ知っているのかを探す間に、ザディクは上着の内側からもう一つ取り出した。
似た形の石だった。こちらには白い線がない。
片方を祭壇の溝へ置く。
もう片方を持ったまま、ザディクがエイルの前へ来た。
「痛くないとは言わない」
「近づくな」
「すまない」
聞きたかった言葉ではなかった。
エイルは歯を食いしばり、指を椅子の縁へ押した。爪が欠けた。薄い血が出ても、木と床の間へは届かない。
ザディクは、その手首へ石を押しつけた。
熱かった。
胸の内側の熱とは違う。皮膚の一点から、腕の骨へ刺さる熱だった。
「離せ」
声が出た。
ザディクは離さなかった。
ゴルヴァンの靴が鳴った。
エイルは、彼の刃を見た。
鍛冶師へ何度も直させた片刃。腹の部分に、ごく小さい刃こぼれがある。
あそこを直す金があるなら、先に妹へ送る。半月前、ゴルヴァンはそう言って笑った。
笑った時、エイルも隣にいた。
「やめろ」
まだ間に合った。
ゴルヴァンの肩が動くまでの、短い間があった。
「ゴルヴァン。俺を見ろ」
彼は見た。
視線を逸らしてくれた方が、まだ、何かを間違えていると思えた。
ゴルヴァンはエイルの顔を見たまま、刃を入れた。
息が、入らなくなった。
胸の熱が、冷たい物で割られた。
椅子の脚が鳴る。動いているのは椅子ではなく、自分の膝だった。
フィエナが何かを言った。
ザディクの指が手首を握り直した。
ヴェラは、扉の前から動かなかった。
エイルは、四人を見ようとした。
全員を覚えておくためだったのか、誰か一人でも止める顔をしていないか探したのか、自分でも分からなかった。
石が光った。
祭壇の溝を走っていた金色が、一度だけ逆へ流れた。
「今度は」
ザディクの口が動いた。
続きを、エイルは聞けなかった。
煙を吸った。
喉が裂けるほど咳き込み、エイルは床へ手をついた。
木だった。
祝勝堂の石床ではない。
目の前に、細い手があった。
剣だこのない指。欠けていない爪。左の親指の横に、昔、薪を割って切った白い痕がある。
その傷を見て、息が止まった。
十六の冬までに、ほとんど消えた傷だった。
頭上で、何かが折れた。
火のついた梁が廊下へ落ち、赤い粉が跳ねた。
エイルは身を引いた。拘束の光はなかった。胸へ触れる。刃も、血の溢れる傷もない。
薄い院生服の下で、心臓が乱暴に鳴っていた。
「立てるか!」
声がした。
煙の向こうに、少年がいた。
黒く汚れた顔。片手を口へ当て、もう片方で胸元を押さえている。
知っている声より、高かった。
名を呼ぼうとした時、少年の背後で壁板が剥がれた。
「中庭へ出ろ!」
誰かが叫び、二人の間を院の大人が走った。
エイルの腕が掴まれる。
引かれた手首に、丸い痕があった。
つい今しがた、灰色の石を押しつけられた場所だった。
火の熱の中で、そこだけが、違う熱を持っていた。




