第19話 妹の薬と爵位
ミュレは、ゴルヴァンの手から紹介状を取り上げた。
「私の話だから、私も読む」
兄は一度だけ口を開き、閉じた。
エイルは向かいの長椅子で、そのやり取りを見ていた。
三月五日、南部の施療所には朝から人がいた。
ミュレが着いたのは、前日の荷便だった。
二月のうちにラグナの医師が紹介先を決め、本人とゴルヴァンが手紙で相談していた。道中は、同じ施療所へ薬を納める助手が付き添った。
エイルが知ったのは、王都へ呼ぶと決まった後だった。
ゴルヴァンは送金の控えを見せても、手紙全部を読ませることはしなかった。
その約束を、エイルも変えなかった。
今日は本人へ顔を見せ、必要なら荷を手伝うために来た。
少なくとも、そういう用だった。
ミュレの荷は、小さい箱と、薬袋だった。
ゴルヴァンが箱を持つと、少女が言った。
「そっちは、割れる物はない。薬袋を揺らさないで」
「分かってる」
「昨日も、分かってるって言って、逆に持った」
ゴルヴァンが、居心地悪そうに首を動かした。
エイルは、その顔を知らなかった。
戦う時とも、自分へ礼を言った時とも違う。
妹の前では、まだ、十八歳で済んでいるように見えた。
エイルは紹介状の入った封筒を見た。
病気が治れば、この二人は、どこへ行くのだろう。
診察の後、医師は新しい治療を説明した。
今までの薬を突然やめるのではない。身体の様子を見ながら、使う物を替える。
そのため、しばらく近くで暮らしてほしい。
ミュレは費用を聞いた。
医師が、月ごとにかかる額と、初めに要る額を分けて書く。
ゴルヴァンは、後ろで黙っていた。
エイルは、その紙を見る許しを得てから、机へ近づいた。
自分の仕事と護衛の賃金だけで、ずっと出せる額ではなかった。
薬を止めればいいという話でもなかった。
ミュレは、紙を自分の袋へしまった。
「払う方法を、兄さんと話します」
そう言って、医師へ頭を下げた。
廊下へ出ると、きちんとした外套の男が待っていた。
ゴルヴァンの名を呼んだ。
闘技場を知る人間の呼び方だった。
「ロウ殿。少し、相談のお時間を」
「誰だ」
「大祭司府の助成を扱う者です。お妹様の紹介について、聞いております」
男は、下げていた手を上げた。
封筒に、濃い赤の蝋があった。
端に、小さい欠け。
エイルは、それを見た。
祝勝堂へ入る前、ザディクが持っていた封筒にも、似た印が押してあった。
あの時は、報奨の話だと思った。
紙の中を、見なかった。
「俺たちは、薬の相談をしに」
ゴルヴァンが言った。
「存じています。その分を、お力になれるかと」
男が、奥の応接室を示した。
ミュレの表情が変わった。
「私も聞きます」
「まず、お兄様の仕事についてです。あとで、治療の方を」
男は笑みを保った。
ゴルヴァンがミュレへ、少し待てるか聞いた。
少女は、兄を見た。
「何の仕事か、私にも言ってね」
「まだ、何も受けちゃいない」
ゴルヴァンは答え、男の後へ行った。
エイルは、ついていこうとした。
男が振り返る。
「御用の内容は、ご本人へ」
ゴルヴァンも、エイルを見た。
「すぐ戻る」
それだけだった。
エイルは、廊下で止まった。
護衛される側が、いつも相手の入る部屋まで選べるわけではない。
分かっていたことだった。
応接室の戸は、ぴたりとは閉じなかった。
後から水を運ぶ職員のため、細く開けてあった。
ミュレは長椅子へ座った。
エイルは、その隣へ戻らなかった。
戸のそばの掲示を読むふりをした。
中から、紙を置く音がした。
「治療に必要な薬については、優先して」
使者の声だった。
ゴルヴァンが何か聞いた。
聞き取れなかった。
「……単なる一度の金ではありません。今後の働きに応じて、身分の保証も。叙爵の推薦を」
エイルは、紙を持っていない手を握った。
妹の薬と、爵位。
二つの言葉が、同じ部屋から聞こえた。
前の人生で、ゴルヴァンが叙爵の話をした夜を思い出した。
北の砦へ応援に入った帰りだった。戦いでは先頭へ出たのに、指揮官と食事をする席には呼ばれなかった。
ゴルヴァンは、粗いパンを裂きながら言った。
同じ剣でも、持っている奴の名で、通れる戸が違う。
エイルは、その時、慰め方が分からなかった。自分なら、呼ばれない席より、次の仕事を探していた。
ゴルヴァンは、通れる側になりたがっていた。
それを、薬のためだけと言い換えたことはなかった。
エイルは、掲示へ目を戻した。
こちらも、きっと、同じだ。
そう思うと、聞こえない返事の所まで、頭の中で埋まっていった。
机へ手を伸ばす。紙を読む。条件を受ける。
実際に見えていたのは、戸の細い隙間だけだった。
受けると答えた声を、聞いたわけではなかった。
足音がした。
水を運ぶ職員だった。
エイルは道を空けた。
職員が戸を押すと、ゴルヴァンの横顔が見えた。
机へ肘をつかず、背を伸ばしていた。
使者の紙には、まだ手を触れていない。
「俺が、何をしたらだ」
ゴルヴァンの声が、今度は聞こえた。
使者が身を寄せ、声を落とした。
職員が戸を戻す。
返事は、聞こえなかった。
エイルは、あと半歩近づきたかった。
ミュレが、後ろから呼んだ。
「エイルさん」
少女は、長椅子の端へ手を置いていた。
「私は、少し怖いです」
エイルは、そちらを向いた。
「薬のこと?」
「薬は、怖くても、先生に聞けるから。兄さんの方」
少女は、自分の袋を膝へ載せ直した。
「お金がないと、何でも、ある方がいいと思っちゃう。私も、そうです。でも、何を渡すのか、聞く前から、ありがたいと思わない方がいいって」
「誰に?」
「ラグナの薬屋の人に、言われました」
エイルは、奥の戸を見た。
ゴルヴァンを必要な方へ動かすために、自分も、妹の薬を条件に置いた。
そのことは、いまは考えたくなかった。
使者は、先に応接室を出た。
ゴルヴァンの手元へ封筒を残していた。
廊下へ出る時、エイルへ短く会釈した。
名前を聞かれなかった。
エイルも、名乗らなかった。
相手の知っている範囲が、分からなかった。
封筒の蝋は、下の右側が少し欠けていた。
円の中に、細い枝が二本。
エイルは、その形を目で追った。
前の人生の印と、細部まで同じだったか。
思い出せない部分へ、今見た形が入り込んでくる気がした。
「何を約束したの」
ミュレが聞いた。
ゴルヴァンは、まだ長椅子へ座らなかった。
「何も。考えると言った」
「薬を、もらう代わりに?」
「まだ、受け取ってない」
ゴルヴァンが封筒を持ち上げる。
少女は、それへ触れなかった。
「治療を、やめてって言ってるんじゃないよ」
「分かってる」
「じゃあ、何を頼まれたのかも、分かったら話して」
ゴルヴァンは頷いた。
エイルは、その頷きを見ていた。
本当に話すなら、今すぐ言えばいい。
そう思った。
ミュレの寝床は、施療所に近い下宿へ決まっていた。
ゴルヴァンが先に荷を運び、エイルは薬袋を持って階段を上がった。
少女は、薬の置く棚を自分で拭いた。
窓の下には、昼の光が入る。
前の人生では名前しか知らなかった妹は、ここで、明日の服を箱から出していた。
エイルは、薬袋を置いた。
「ここで、合ってますか」
「はい。ありがとう」
ミュレが答えた。
その礼まで、こちらを縛るように聞こえた。
宿へ戻る道で、エイルは聞いた。
「いい仕事でしたか」
ゴルヴァンが顔を向けた。
「まだ、決めてない」
「それは聞きました」
声が冷たくなった。
ゴルヴァンは少し黙り、それから言った。
「だったら、今夜は、それで待ってくれ」
エイルは頷いた。
待てと言われた言葉だけが、耳へ残った。
手の内を明かさないまま、こちらを座らせておく。
あの地下の椅子へ、また、脚が留められた気がした。




