第16話 見知らぬ襲撃者
刃は、エイルの手ではなく、手が伸びる先へ来た。
戸枠へ触れれば張れる。
そう思って出した指の、一寸先だった。
引いた手の代わりに、左の肩へ痛みが走った。
エイルは荷箱にぶつかり、膝をついた。
相手は、追ってきた。
十二月二十日の夕方だった。
トルン南の運河沿いには、大きい倉庫が何棟も並んでいた。
南が荷車の通る道。北が運河。
今日の仕事は、道に向いた大戸の枠を直すことだった。
職人が取り替えた金具を、エイルが一枚ずつ確かめる。ヴェラは運河側の小戸を見て、古い木の割れを直した。
小戸の前には、明日出す荷が積んであり、人一人なら横を抜けられる程度だった。
東には橋がある。その脇の石段が、下の船着き場へ続く。
昼間は、そこを荷役の人が何度も上り下りしていた。
小戸の隣の柱には、灯りを置く段があった。
ヴェラは仕事の間だけ借りた油皿を、そこへ戻していた。帰る前に灯を消すのは、まだこれからだった。
大戸からは積荷に隠れて見えず、小戸側へ回ると炎が見える。
エイルは、最後の点検で、そこも見るつもりだった。
北の出口から運河の縁までは、人が並んで歩ける細い道がある。荷船へ降りるには、東の石段まで行くしかない。
最初の二週間で、エイルの指の傷は塞がった。
作業は、少し速くなった。
相変わらず、一つの枠を保つしか出来ないが、止める時刻を告げれば、職人が合わせてくれる。
ヴェラとは、同じ図を広げていた。
彼女が間違いを見つけると、エイルの方も、腹を立てながら直した。
仕事が終わった後まで、一緒に食べる日が増えた。
手が使えない時には、金具を三度鳴らして、人を呼ぶようになった。
運河の風で声が通らないから、職人が始めた合図だった。ゴルヴァンは面倒がりながらも、それが聞こえると、一度は顔を上げてくれた。
それが何を意味するかは、名簿へ書かなかった。
今日の完了票は、ゴルヴァンが東の事務所へ持っていった。
荷主の出る前に、護送の追加を聞くためだった。
フィエナは西隣の薬屋で布を買い、ヴェラが付き添っていた。
エイルは、倉庫の入口へ、使い終えた楔を並べていた。
数を確かめ、返す。
それで終わるはずだった。
道から、空の荷車が入ってきた。
エイルは車輪を避け、大戸の内側へ下がった。
御者は一声かけ、そのまま隣の荷場へ進んだ。
戸口に、別の人が立っていた。
暗い外套だった。
顔の上半分を、革の仮面が覆っている。
口元にも、布が巻かれていた。
冬の運河で顔を包む人は珍しくない。だが、その男は、倉庫の中へしか目を向けなかった。
「ここは、もう終わりです」
エイルが言った。
男は、右手を下ろした。
外套の下に、剣があった。
叫ぶより先に、手首が熱くなった。
袖越しでも分かった。
水車小屋の夜と同じ場所だった。
男の剣が、鞘から離れた。
エイルは戸枠へ手を伸ばした。
そこへ、刃が来た。
いつも触れる高さへ、自分より先に届いた。
エイルが指を引くと、男は踏み込み、刃先を肩へ滑らせた。
布が裂けた。
手首の石痕は、肩の傷とは別に熱を持っていた。
ゴルヴァンではない。
最初に浮かんだのは、それだった。
今ここで、あの男が剣を振るっているのではない。
だから逃げられる、と、思えるはずだった。
身体は動かなかった。
男が正面から剣を下ろす。
エイルは、荷箱の脚へ倒れ込んだ。
刃が、頭のあった所を通り、箱の端を削った。
木屑が、頬へ飛んだ。
男が荷箱へ足を掛けた。
踏み台にして越えるのだと分かり、エイルは底板を両手で押した。
肩の傷が引かれた。
箱は少し動いただけだったが、男の踵が縁から外れた。
その半歩を使って、エイルは這い退いた。
途中で、入口の外へ声を出した。
「ゴルヴァン!」
道を荷車が通り、車輪と金具の音が、名前を呑んだ。
男の剣先が、床を低く滑ってきた。
エイルは片脚を引き、箱の反対へ身体を転がした。呼ぶために立てば、もう一度、刃の前へ胸を出すことになる。
肩を押さえた手が濡れた。
前の人生の傷ではなかった。
「誰だ」
エイルは言った。
声が小さすぎた。
男は答えず、箱の反対側へ回った。
こちらが床へ手を出す道を、剣で塞ぐ。
境界編みを知っている。
エイルは右手を箱の縁へ置きかけ、やめた。
持ち運べる蓋や枠にも糸は張れる。だが、あの刃を止めるほど頑丈ではない。
箱ごと割られれば、指の置場も消える。
男は、その迷いまで待たずに来た。
エイルは箱を押した。
相手へぶつけるほどの力はなかった。
それでも、床を滑る音がして、男が半歩止まった。
エイルは奥へ走った。
南の大戸は、男の後ろ。
北の小戸まで行けば、外へ出られる。
その手前には、昼間見た積荷がある。
細い隙間へ入り、身体を横にした。
肩が木へ擦れ、息が詰まる。
剣先が、すぐ後ろの袋を裂いた。
乾いた豆が、足元へ広がった。
「動くな」
男が言った。
布で籠もった、低い声だった。
「今なら、少なく済む」
エイルは、袋の陰で振り向いた。
少なく。
自分の傷を、そう数えたのか。
ほかの誰かの命と比べたのか。
「何が」
男は答えなかった。
ただ、今度は荷の隙間へ、剣を横から入れた。
エイルは膝を曲げた。
髪へ、刃の平たい所が触れた。
声が喉へ引っかかった。
息を吸うだけで、肩の傷が開く気がした。
小戸の光が見えた。
夕方の青い光。
そこへ行くには、今いる箱と、次の樽の間を抜けなければならない。
男の靴音が、樽の反対側でした。
先回りしている。
エイルは、その位置を聞き、戻ろうとした。
すると、戸口の方で靴が止まった。
こちらが戻るのも、分かっていたようだった。
誰もが使う道を、相手も見ているだけかもしれない。
それでも、自分の動く前に道が消える感触が、ひどく懐かしかった。
前の人生の戦いで、エイルはいつも左へ下がった。
右手を枠へ残し、身体だけを引く。
隊の後ろにいる時には、そうすれば剣士の動きを邪魔しなかった。
今も、左へ寄っていた。
エイルは、右へ踏み出した。
荷の陰から身体が出る。
男の刃が、左側を通った。
避けた。
避けたのだと気づいた時には、もう、次が来ていた。
エイルは、樽の陰へ手を引っ込めた。
刃が縁に当たる。
鉄の輪が鳴った。
音。
エイルは、頭を上げた。
声を出しても、外の荷車の音に紛れる。
樽の輪なら、もっと鳴る。
右のポケットへ手を入れた。
小刀があった。
抜けば、相手と戦う形になる。
指が動かなかった。
何度も刃を入れられる場面が、目の前へ来た。
エイルは鞘ごと握った。
柄の硬い端で、鉄の輪を叩いた。
一度。
男が顔を向ける。
二度、三度。
樽の中身を壊すくらい、強く叩いた。
剣が、荷の上を通った。
男が樽を回り、エイルの右側へ来る。
小戸から、遠ざけようとしていた。
エイルは樽へ背を預けた。
残してきた大戸まで、何歩だったか。
ゴルヴァンは、事務所から戻ってくるのか。
完了票を預けただけなら、すぐだった。追加の護送を頼まれたら、話し込んでいるかもしれない。
自分が頼んだ仕事だった。
今ここで、側へ置いておきたかった。
そんなことを思っている間に、男が剣を構え直した。
頭上の梁へ、灯りを吊るす鉤があった。
届かない。
その下を通る柱は、男のすぐ横だった。
触れれば、と考える度に、相手がそこへ立つ。
エイルは樽の輪をもう一度叩いた。
今度は、外から音が返った。
誰かが、大戸の前で呼んだ。
「中に、いるのか」
ゴルヴァンの声だった。
男が、ほんの少し首を傾けた。
エイルは息を吸った。
「いる!」
肩が痛んだ。
「一人、剣を持ってる!」
言い終わる前に、男が踏み込んだ。
エイルは膝を折り、今度は自分から床へ伏せた。
刃の下で、湿った木の匂いがした。
入口で、別の剣が抜かれる音がした。




