第14話 二つの扉
通用戸の下には、水抜きの穴があった。
灰が詰まり、外からは鉄板にしか見えない。
エイルは炭袋を持ち上げるふりをして、靴先でその縁を確かめた。
この奥に、落とし棒を外す短い柄がある。
前の人生では、ヴェラが、焼けた壁を指して教えた。
今は、鉄板を開けていない。
誰にも、その柄の話をしていなかった。
十一月二十五日の昼過ぎ、炭の車は焼却場へ入った。
ゴルヴァンが前を引き、エイルは後ろから押す。フィエナは荷主に頼まれた手当ての布を持ち、門番へ顔を見せてから入った。
本棟の炉では、予定を移した停止試験が始まっていた。
監督役の職員が二人、そちらへ呼ばれている。
囲い庭にいるのは、塔の番と、別棟の鍵を持つ男だった。
ヴェラが本棟を出た。
面会の札を胸元へ差し、男へ見せる。
試験は、煙の流れを一度止めた所まで通ったらしい。
男は札を読み、南戸の鍵を回した。
エイルは袋を下ろし、通用戸の縦枠へ指を滑らせた。
糸は、まだ光らせない。
切り替える所だけを決め、細い魔力を留める。
別棟の方では、ヴェラが南戸の金具へ触れた。
戸を支える時の、何でもない仕草に見えた。
二つの戸の間には、灰のついた敷石が続いている。
走る線を見てから、エイルは荷車を半歩ずらした。
塔から南戸の前を見下ろす角度に、車の枠が少し重なった。
ゴルヴァンが、二本の楔を抜いて袖へ隠す。
一本ずつ手の中で持ち替え、走る邪魔にならない向きに握った。
エイルは、別棟の壁際へ納める小袋を運んだ。
南戸の手前で置き、立つ時に、敷居へ指を触れる。ここにも、細い糸の端だけを残した。
今は、通用戸の方と繋がっていない。
最初から二つを同時に保てるつもりではなかった。南戸の術が切れた時、代わって支えるための予備だった。
置いてあれば、離れた所からでも届くかもしれない。
試せていない望みを、計画の欄外へ残したまま、エイルは荷車へ戻った。
ヴェラが中へ入ってから、長く感じた。
実際には、炭袋を三つ運ぶ間だった。
フィエナは、南戸から二歩離れた壁の陰にいる。布の包みを膝へ置き、誰かに呼ばれたら出られる姿勢で待っていた。
戸が、もう一度開いた。
少年がいた。
ヴェラの袖を掴み、外の明るさに目を細めている。
思っていたより、髪が長かった。
フィエナが立った。
鍵の男が、少年を見て、眉を寄せる。
「外へは出さない」
「ここで診てもらう。薬を飲んでも、咳が止まらないの」
ヴェラが言った。
男は、フィエナの袋を見る。
少女が片膝をつき、少年へ手を見せた。
「フィエナです。息を、聞いてもいいですか」
少年は、姉を見た。
ヴェラが頷くと、自分で襟を少し開いた。鎖骨が浮いていたが、話しかける声は思ったよりしっかりしていた。
「姉さん、昨日のパン、半分しか来なかった」
ヴェラの口元が動いた。
「今日は、ちゃんと食べよう」
「その人も、一緒に?」
ルカが、フィエナを指した。
「そう。何人か、いる」
ヴェラはそれだけ言った。
エイルは、ここを出た後の寝床の説明を始めかけ、飲み込んだ。少年が知りたいのは、目の前の知らない人が、姉の知り合いかどうかだった。
エイルは、少年の足を見た。
左の踵が、地面につくのを嫌がっていた。
歩ける。だが、走るのは難しいかもしれない。
フィエナもそこを見て、ヴェラへ短く何かを言った。
ヴェラが頷く。
袖の下で、掌を一度開いた。
合図だった。
ゴルヴァンが、南戸の方へ動いた。
鍵の男は、彼が近づくのを見て後退した。戸へ片手を掛け、閉めようとする。
ヴェラの指が、枠へ触れた。
黒い線が、短く走った。
戸が止まる。
男が声を上げた。
ゴルヴァンがその手首を押さえ、壁へ向けた。
「剣は抜くな。こっちも抜いてない」
男は空いた手でゴルヴァンを殴った。
頬へ当たる音がした。
ゴルヴァンは顔を背け、相手の膝を崩して地面へ座らせた。
フィエナが、少年の腕を取る。
「ルカ。お姉さんの方へ」
名前を呼んでから、歩かせた。
塔で鐘が鳴った。
本棟の方から、人が戻ってくる。
エイルは通用戸の糸を張った。
荷車がまだ戸の中へ半分入っている。先に車を外へ押せば、広い出口を残せる。
ゴルヴァンは南戸へ楔を差し、男の鍵を遠くへ蹴った。
ヴェラが、先に弟を受け取る。
その時、背後の南戸が、もう一度動いた。
枠の黒い線が切れかけている。
内側から、別の職員が押していた。
楔が、敷石の上を滑った。
エイルは右手を通用戸へ残し、左手を南戸へ向けた。
留めてあった糸の端が、向こうの枠に見えた。
そこまで、力を渡せれば。
二つの図を頭へ並べた。
息を吸い、糸を繋ごうとした。
通用戸の感触が消えた。
指へ、木が食い込んだ。
両方の戸が、同時に動いた。
「無理だ、エイル!」
ゴルヴァンの声がした。
南戸の下へ、二本目の楔を打ち込んでいた。
「こっちは、持った。そっちだけ見ろ!」
エイルは左手を下ろした。
遠い糸を捨てる。
目の前の枠へ、もう一度指を押した。
ほんの数秒でいい。
全員が通るまでを一度に引き受けず、一人ずつ、通す。
ヴェラがルカを抱え直し、走った。
フィエナが反対側の腕を支える。
二人がかりでも、少年の足は時々地面へ触れた。
「左、上げて」
フィエナが言う。
ルカが必死に膝を曲げた。
エイルの脇を、三人が抜ける。
外の道へ出た。
ヴェラが弟をフィエナへ預け、振り返った。
「車、出すよ!」
彼女が荷車の外側を引いた。
エイルは戸から指を離し、一緒に押す。
空いた車輪が、敷居を越えた。
通用戸が内側へ戻る。
ゴルヴァンはまだ、南戸の前にいた。
一本目の楔を拾い、二本目に掛かった荷重を、肩で一瞬受けている。
ゴルヴァンは荷重を受け止めた隙に二本目を引き抜き、身体を横へ流した。
南戸が、背後で閉じる。
通用戸へ、走ってきた。
エイルは、もう一度張ろうとした。
指が言うことを聞かなかった。
汗が目へ入る。
目の前で、戸が半分まで閉じた。
外側の落とし棒が鳴った。
誰かが、塀沿いに回ってきたのだ。
エイルは屈み、鉄板を押し上げた。
灰が顔へ落ちた。
暗い穴の奥へ指を入れる。
最初は、何も触れなかった。
記憶の位置より低い。
金具の縁で指を切り、それでも奥へ伸ばす。
短い柄があった。
横へ倒した。
落とし棒が跳ね上がる音がした。
ヴェラが外から戸を引いた。
エイルは身体ごと押し、隙間を広げた。
ゴルヴァンが、その間へ滑り込む。
剣の鞘が、木へ当たった。
エイルは彼の上着を掴み、外へ引いた。
今度は、自分からその身体へ手を出した。
ゴルヴァンが出た後、ヴェラが戸へ掌をつけた。
黒い線が走る。
内側から、拳で叩く音がした。
「ずっとは保たない。行って」
彼女が言った。
外の荷車道から、運河へ下りた。
ルカはフィエナに支えられ、自分で数歩進もうとしていた。
エイルは前へ回り、しゃがんだ。
「乗って」
少年が、迷った顔をした。
ゴルヴァンがエイルの肩へ手を置く。
「お前が乗せたら、二人で倒れる。俺に」
膝をついたゴルヴァンへ、ヴェラが弟を預けた。
エイルは空いた腕を下ろした。
自分が用意した救出だった。
自分が最後に、少年を抱えるところまで、勝手に決めていた。
ゴルヴァンの背で、ルカは姉を探した。
ヴェラが、横にいると声をかけた。
本棟の方で、もう一つ鐘が鳴った。
ヴェラが立ち止まりかけた。
窓際に、紙を乾かす棚がある。
エイルもそれを覚えていた。
今までの試験図が、あそこへ置いてあった。
「戻る?」
思わず聞いた。
ヴェラは首を振った。
「行く」
弟の方へ、足を向けた。
追手を止める線は、もうすぐ切れる。
エイルは、指の傷を服で押さえ、彼女の後を追った。
ヴェラの袋には、脅しの証書の写しが入っていた。
ゴルヴァンの背で、弟がまた姉を呼んだ。




