第13話 救われたくない人
「弟さんの滞在費を、俺が引き受ける形なら」
エイルが言うと、ヴェラは紙を返した。
開きもしなかった。
「出した後の話は、あと」
「行先を決めなければ、また連れ戻されます」
「あなたの隣に決めておけば、連れ戻されないの?」
エイルは、受け取った紙の角を揃えた。
ゴルヴァンの時には、ここで話が進んだ。
十一月十七日、外来室の窓には、内側から木の板が渡されていた。
昨日、外の人間が別棟を見ていたからだと、案内係に言われた。
ヴェラは、その板を背に座っていた。
「一緒に仕事をしてもらえれば、住む所と、護衛を用意できます」
「弟が、あなたの仕事を嫌だと言ったら?」
「ルカに仕事をさせるとは言っていません」
「私が嫌だと言ったら、あの子の寝床も消えるでしょう」
エイルは、言葉を探した。
「期間を決めれば」
「期間がある箱へ、入れ替えるだけね」
ヴェラは、今度こそ戸を指した。
エイルは立った。
彼女が諦めるまで待つことは出来る。
その考えが浮かび、テムロの足が、頭を過ぎった。
エイルは図を抱え、その日は帰った。
ゴルヴァンに話すと、彼は、炭の袋を肩へ載せながら言った。
「嫌なら、違う仕事を探すしかねえんじゃないか」
「あの人が、必要なんです」
「その図に?」
エイルは答えなかった。
ヴェラが扉を閉ざす瞬間を、もう一度、自分の見える所で迎えたい。
その時、外へ出るのはどちらか。
紙に書けない方の理由は、口にも出せなかった。
ゴルヴァンは返事を待たず、袋を荷台へ置いた。
「ルカを出すのに必要なのか、お前の仕事に必要なのか。そこ、混ぜて言うと、分からん」
炭の粉が、地面へ落ちた。
エイルは、その黒い線を靴で避けた。
翌日から、研究区へ炭を運ぶ荷主の仕事に付いた。
ゴルヴァンは運搬、エイルは車の戸の修繕。フィエナは、灰で目を傷めた作業員を、荷主の小屋で診た。
表門以外の道が、少しずつ分かった。
本棟の東に炉のある試験室。北側へは許可なしで入れない。
南西には焼却場があり、灰を出す通用戸が、運河沿いの道へ続く。
通用戸から内側へ入ると、小さい裏庭。その奥が、別棟の南戸だった。
塔の番は、裏庭の大部分を見下ろせる。
灰を荷車へ出す時だけ、戸口に人が集まり、その陰が少し増えた。
誰も見ていない道ではない。
そういう道しか、なかった。
エイルは、紙へ見た物を描いた。
荷を入れた回数。待たされた時間。南戸の前にいる人。
ヴェラへ持っていくには、まだ足りない。
古い排水路も、覚えていた。
前の人生で、彼女が研究区を焼き払った後、地下から一緒に出た。
あの出口なら、塀を通らずに済むかもしれない。
ただし、今はそこへ通じる戸を見ていなかった。
エイルは線を描き、途中で止めた。
崩れる前の壁を、今、通れるとは限らなかった。
二十三日の夕方、ヴェラが外へ来た。
焼却場の荷受けに立ち会う許可を得たらしい。案内係は通用戸の内側に残り、近くの職人と話していた。
ゴルヴァンが最後の袋を下ろす間、ヴェラはエイルの紙を見た。
「この塔の交代、半刻ずれてる」
指を置く。
「昨日は、代わりの人が遅れたの。普段じゃない」
エイルは顔を上げた。
「調べていたんですか」
「何もせずにいたと思った?」
返事が出来なかった。
彼女の指は、南戸の金具へ移った。
「ここは内側から閉じる。外から入れても、出る時に閉じられたら終わる」
エイルの描いた矢印の上へ、短い線を置いた。
帰り道が、切れた。
ヴェラは、折った紙を一枚出した。
表に、本人の名と、弟の名。
研究の成果を持ち出し、あるいは施設の管理に背いた場合、被保護者の安全は保証しない。
下へ、彼女の署名があった。
「署名をした時は、事故が起きたらという説明だった。でも、ここを出る話をしたら、同じ紙を出された」
エイルは文を読んだ。
安全を保証しない、という柔らかい言葉だった。
鍵を持つ男が、食事の紙まで読む場所で、その言葉が何をするかは分かった。
「弟を殺すと、直接言われた?」
「ええ。私が逃げたら、ね」
ヴェラは、通用戸の方を見た。
案内係が笑い、職人が炉の方を指していた。
ここまで、聞こえていない。
「次は、いつ会えるんですか」
「二十五日。試験が通れば。通らなくても、その翌日には弟を北の保管施設へ移すと言われた」
場所を聞いたが、ヴェラは首を振った。
正確な行先を渡されていなかった。
エイルは、弟がいる方へ目をやった。
移されてから探す、と言えなかった。
今見える戸が、二日後には、意味のない戸になる。
「何が出来るか、話させてください」
「救った後の値段なら、聞いた」
「救うまでの、仕事です」
ヴェラが、もう一度、エイルを見た。
翌朝、外来室の鉄筒を使った。
エイルは、片方の蓋の枠へ糸を張った。
ヴェラが反対側を開ける。
二つの縁は、別々の場所だった。両方へ魔力を渡そうとすると、最初の糸が緩んだ。
「まだ、同時には無理」
ヴェラが言った。
エイルは手を離した。
「片方を、人が持てば」
「それで、昨日の剣士が逃げられる?」
エイルは、ゴルヴァンの立つ所を描いた。
戸の下へ楔を入れる。荷が動かなければ、最後にそれを抜いて走る。
ヴェラは楔へ丸をつけた。
「予備も。現場の敷居が濡れてたら、滑る」
彼女は何度も、そこを見ていた。
窓へ板を打たれても、食事を取り上げられても。
エイルは、持ってきた紙の下端を切った。
そこに書いた、同行を求める文を、図から離した。
「この作戦が終わったら、別です」
エイルは言った。
「俺に借りを返すために、残れとは言いません」
ヴェラは、すぐに頷かなかった。
「途中で、あなたの図を選ばなければならない時は?」
「危ない理由を、言ってください」
「言っている間に間に合わなくなる時もある。私が弟を先に出すと決めたら、後ろを捨てるの?」
エイルは、自分の紙を見た。
救いに来た人間として、礼を言われる場面が、どこにもなかった。
失敗した扉の前へ立ち、人を通す間だけ、残る仕事だった。
「後ろは、俺たちが見ます」
「あの二人にも、そう言って」
ゴルヴァンとフィエナを、外の荷主小屋へ呼んだ。
ヴェラも来た。翌日の搬出を相談する仕事として、短い時間を取ったのだった。
フィエナは弟の歩ける状態を聞いた。
ヴェラは、最後に見たのが三日前だと言った。元気だと決めつけず、担ぐ布も用意することになった。
ゴルヴァンは、楔の位置を指した。
「俺が最後に出る。抜けなかったら、置いていく。いいな」
ヴェラが頷く。
「道具より人。研究の原本を取りに戻るためにも、待たないで」
エイルは顔を上げた。
彼女が守りたい物の中に、その紙があることを知った。
それでも、自分で順番を決めていた。
明日の荷は、昼過ぎに焼却場へ入る。
ヴェラは本棟の試験をその時間へずらす。通用戸の荷役と重ね、職員を二つの場所へ分ける。
その隙に、別棟の南戸へ行く。
南戸から入った廊下の左が、ルカの部屋だった。
面会の間は、担当者が内側の戸を開ける。ヴェラは、入る前から術を仕込んでおき、弟を連れて出る時に南戸を保つ。
エイルが受け持つのは、荷車の通用戸だった。
二つの戸の間は、歩けば三十歩ほど。走れば短くても、同時に両方へ手は届かない。
弟が歩けなくなったら、何歩遅れるかも分からない。
フィエナは、自分の印を南戸の外へ置いた。
「ここで、私が受けます。走れと言う前に、立てるかを見ます」
ゴルヴァンが、二本の楔を荷の脇へ差した。
戸を開け、人を通し、戻る。
エイルは、最後の線を引いた。
ヴェラは署名をしなかった。
代わりに、明日、自分が立つ場所へ指を置いた。
「ここまで来たら、私が合図する」
エイルは、彼女の指の横へ、自分の印をつけた。




