第9話 小鞠
その翌日、阿部は夜勤明けでマンションへ戻ってきた。
空はもう明るかった。
夏の朝の光が、建物の壁を白く照らしている。
夜勤のあとに見る朝の光は、いつも少し眩しすぎる。
阿部は肩を回しながら、マンションの階段を上がった。
早く部屋に入って眠りたかった。
昨日から、ずっと気になっていることがある。
二〇四号室に入った田中美佐のことだった。
あの時、阿部は何も言えなかった。
夜十時に、坂の上を見てはいけない。
女の子がいても、目を合わせてはいけない。
声をかけてはいけない。
そう言わなければならなかった。
けれど、言えなかった。
初対面の女性に、そんな話をすれば、どう思われるか。
変な隣人だと思われる。
怖がられる。
会社に話が行くかもしれない。
そう考えているうちに、田中は仕事へ行ってしまった。
阿部は、それを何度も思い出していた。
その時だった。
二〇四号室の扉が開いた。
阿部は足を止めた。
中から出てきたのは、田中美佐だった。
髪を軽くまとめ、仕事用の鞄を持っている。
昨日と同じように出勤するところらしかった。
けれど、顔色が少し悪かった。
目の下に薄い影がある。
昨日の明るさは残っているが、どこか疲れているように見えた。
「あ、おはようございます」
田中は阿部に気づくと、軽く頭を下げた。
「阿部さん、今お帰りですか?」
「はい。夜勤明けで」
「お疲れさまです」
「田中さんも、これから仕事ですか?」
「はい」
田中は笑った。
けれど、その笑顔にも少し力がなかった。
阿部は迷った。
今、言うべきか。
いや、まずは様子を聞くべきか。
そう考えているうちに、口が勝手に動いた。
「田中さん、少し顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
「え」
田中は驚いたように自分の頬に触れた。
「そんなに分かります?」
「少し疲れているように見えます」
「ああ……実は、よく眠れなくて」
阿部の胸が、嫌な音を立てた気がした。
「眠れなかったんですか?」
「はい。なんか、変な夢を見て」
「……夢ですか」
阿部の声が少し硬くなった。
田中はそれに気づいていないようだった。
「はい。よく分かりましたね」
「いえ」
阿部は喉を鳴らした。
「どんな夢だったんですか?」
「変な夢ですよ」
田中は苦笑した。
「街灯のそばで、女の子と男の人が手毬をしている夢です」
阿部は息を止めた。
田中は気づかずに続けた。
「ずっと、ぽん、ぽんって音がしていて。起きてからも、なんか耳から離れないんです」
「手毬の音が」
「そうです」
田中は困ったように笑った。
「夢なのに、変ですよね。今もたまに聞こえる気がして」
ぽん。
ぽん。
ぽん。
阿部の頭の中にも、その音が蘇った。
笠間が言っていた音。
佐藤が聞いたという音。
窓を叩く音と同じくらい、忘れられない音。
「……その女の子は」
阿部は慎重に聞いた。
「どんな子でしたか?」
「小さい女の子でした」
「服は?」
「昔の着物みたいな服でした。髪はおかっぱで」
阿部の背中に冷たい汗がにじんだ。
「目は?」
「目?」
「いえ」
聞いていいのか分からなかった。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「目は、普通でしたか」
田中は少し首を傾げた。
「普通じゃなかった気がします」
「普通じゃない?」
「夢だから、はっきりとは覚えてないんですけど」
田中は眉を寄せた。
「黒かったんです。目が。白いところがなくて、全部黒いみたいな」
阿部は、思わず廊下の壁に手をつきそうになった。
始まっている。
そう思った。
もう、始まっている。
「その子、名前があって」
田中が言った。
「名前?」
「はい。夢の中で、男の人が呼んでいたんです」
「何と」
「小鞠ちゃん、って」
田中は少し恥ずかしそうに笑った。
「かわいい名前ですよね。手毬を持っているから、小鞠ちゃんなんでしょうか」
阿部は笑えなかった。
小鞠。
初めて聞く名前だった。
けれど、聞いた瞬間、なぜかそれがあの女の子の名前だと分かる気がした。
田中は続けた。
「その小鞠ちゃんが、すごく楽しそうに遊んでいて。男の人も一緒にいたんです」
「男の人」
「はい」
阿部の喉が乾いた。
「どんな人でしたか」
「ええと」
田中は少し考えた。
「眼鏡をかけていました」
阿部の指先が冷たくなった。
「髪は?」
「真ん中で分けていたと思います」
阿部は、笠間の顔を思い浮かべた。
眼鏡。
真ん中で分けた髪。
丁寧な言葉遣い。
どこか真面目そうで、少し頼りなさそうな雰囲気。
「中肉中背で」
阿部は、ほとんど無意識に言っていた。
「言葉遣いが丁寧で、真面目そうな人じゃありませんでしたか?」
田中は目を丸くした。
「え、すごい」
阿部は答えられなかった。
「どうして分かったんですか?」
「いえ」
「そうです。そんな感じでした」
田中は少し考え込むように視線を上げた。
「なんだろう。会社員のお父さんみたいな雰囲気というか。もちろん私のお父さんじゃないんですけど、なんか、すごく丁寧で、困ったように笑う人でした」
笠間さんだ。
阿部はそう思った。
夢の中に、笠間さんがいた。
あの女の子の隣にいた。
手毬をしていた。
それだけで、もう十分だった。
「田中さん」
阿部は、声を絞り出した。
「その夢、いつ見たんですか?」
「昨日の夜です」
「昨日の夜」
「はい。寝たらすぐ、というか」
田中は自分の肩を軽く揉んだ。
「ずっと遊んでいる夢だったので、寝た気がしないんですよ。さっき起きたら体がだるくて」
「遊んでいたんですか」
「はい。三人でずっと」
「三人」
「小鞠ちゃんと、その男の人と、私で」
阿部は、言葉を失った。
田中はまだ夢の話として話している。
少し変な夢を見た。
よく眠れなかった。
ただそれだけのことだと思っている。
けれど、阿部にはもう、夢の話には聞こえなかった。
田中は小さくため息をついた。
「なんか、まだ耳に残ってるんですよね」
「何が」
「ぽん、って音です」
田中は笑った。
「手毬の音。夢の中ではずっと聞こえていたので」
阿部は、廊下の奥を見た。
二〇四号室の扉は開いたままだった。
中は普通の部屋に見える。
朝の光が差し込んでいるだけだ。
けれど、その奥に、夜十時の街灯が続いているような気がした。
「田中さん」
阿部は言った。
「少し、話があります」
「すみません」
田中は腕時計を見た。
「もう行かないと」
「すぐ終わります」
「本当にすみません。今日、早めに出ないといけないんです。まだ入ったばかりで、色々覚えないといけなくて」
「でも」
「帰ってきたら、また聞きますね」
田中は申し訳なさそうに笑った。
「隣ですし」
その言葉を聞いて、阿部は何も言えなくなった。
隣。
そうだ。
隣なのだ。
扉一枚ではなく、壁一枚。
すぐ隣にいる。
なのに、阿部には何もできていない。
「それじゃ、行ってきます」
田中は頭を下げ、階段の方へ向かった。
阿部は追いかけようとして、一歩だけ足を出した。
けれど、止まった。
今、廊下で大声を出して引き止めるのか。
夢に出てきた女の子は危険です。
その男は、いなくなった前の入居者です。
夜十時に、坂の上を見てはいけません。
そんなことを言うのか。
言わなければならない。
分かっている。
けれど、阿部の口は動かなかった。
田中の足音が階段を下りていく。
やがて、マンションの入口の扉が開き、閉まる音がした。
共同廊下が静かになる。
阿部は二〇四号室の前に立っていた。
扉は、田中が急いでいたせいか、少しだけ開いていた。
阿部は中を覗かなかった。
覗いてはいけない気がした。
ただ、手を伸ばして扉を閉めた。
かちり、と小さな音がした。
その音が、やけに大きく聞こえた。
阿部は自分の部屋に戻った。
眠るつもりだった。
夜勤明けで、体は疲れている。
目を閉じればすぐに眠れるはずだった。
けれど、布団に入っても眠れなかった。
田中の言葉が頭から離れない。
小鞠ちゃん。
手毬の音。
眼鏡をかけた、真面目そうな男。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
阿部は寝返りを打った。
笠間さんは、あの子の隣にいた。
田中さんは、それを見た。
夢の中で、もう一緒に遊んでいた。
それがどういう意味なのか、考えたくなかった。
だが、考えずにはいられなかった。
田中さんは、あの子にもう見つかっている。
まだ本人は分かっていない。
まだ夢の話だと思っている。
けれど、もう始まっている。
阿部は起き上がった。
田中に連絡しようにも、電話番号を知らない。
会社の連絡先も分からない。
二〇四号室に戻ってくるのを待つしかない。
けれど、夜に若い女性の部屋を訪ねて、怪談じみた忠告をするのは簡単ではなかった。
もし警戒されたら。
もし会社に連絡されたら。
もし変な隣人だと思われたら。
そんなことを考えている場合ではない。
分かっていた。
それでも、阿部は動けなかった。
そのまま、ほとんど眠れないまま時間だけが過ぎた。
夕方になった。
仕事に行く時間が近づいていた。
阿部は玄関で靴を履きながら、何度も二〇四号室の扉を見た。
まだ田中は戻っていないようだった。
廊下は静かだった。
阿部はポケットの中のスマートフォンを握った。
管理会社の女性からもらった番号が入っている。
電話するべきか。
いや、何を言えばいい。
新しく入った田中さんが、夢で小鞠ちゃんを見ました。
笠間さんらしき男も一緒にいました。
そんなことを言って、どうなる。
けれど、何もしなければまた同じことになる。
阿部はしばらく廊下に立っていた。
二〇四号室の扉は、何も言わずに閉まっている。
その向こうから、手毬の音が聞こえた気がした。
ぽん。
阿部は息を止めた。
もう一度耳を澄ませる。
何も聞こえない。
気のせいだったのかもしれない。
だが、阿部にはもう、気のせいだとは思えなかった。
仕事へ行かなければならない時間だった。
阿部は階段を下りた。
外に出る。
駐車場に停めてある車へ向かう。
その途中で、坂の上を見そうになった。
阿部は慌てて目を伏せた。
見てはいけない。
自分にそう言い聞かせた。
車に乗り込む。
エンジンをかける。
それでも、すぐには発進できなかった。
田中さんに言わなければならない。
今度こそ、言わなければならない。
そう思いながら、阿部はハンドルを握りしめた。
だが、仕事へ行く時間は待ってくれなかった。
阿部は、何もできないまま車を出した。
マンションが、バックミラーの中で少しずつ遠ざかっていく。
二〇四号室の窓は、まだ明るい朝の名残を映しているだけだった。
けれど阿部には、その窓の奥で、誰かが手毬をついているように思えてならなかった。




