第8話 後任
笠間さんがいなくなってから、一週間ほど経った。
二〇四号室は、ずっと空いたままだった。
正確には、誰も住んでいないだけで、人の出入りはあった。
会社の人間が何度か来た。
笠間さんの荷物を運び出し、部屋の中を確認し、管理会社の人間とも何かを話していた。
阿部は、そのたびに二〇五号室の中で息を潜めていた。
廊下で足音がする。
二〇四号室の扉が開く。
何かを運ぶ音がする。
それを聞いていると、胸の奥がざわついた。
誰かが、おかしいと言うのではないかと思った。
荷物が残っていたこと。
窓が開いていたこと。
本人だけがいなかったこと。
それを見れば、誰か一人くらいは変だと思うのではないか。
そう思っていた。
けれど、何も起きなかった。
笠間さんは、退職した人間として片づけられた。
二〇四号室は、ただ空いた部屋になった。
事故物件になったわけでもない。
警察が来るわけでもない。
会社が大騒ぎするわけでもない。
ただ、私物が撤去されただけだった。
あまりにも簡単だった。
阿部は、それが気に入らなかった。
笠間さんは、あんなに怯えていた。
あの手紙だって、何かを残すために渡したはずだった。
それなのに、手紙は退職願になっていた。
会社の人間は、それを読んで納得した。
最近様子がおかしかった。
仕事中もぼんやりしていた。
ミスが増えていた。
寝不足だと言っていた。
結局、仕事が合わなかったのだろう。
そんなふうに、すべてが会社の中の話として処理されてしまった。
確かに、阿部には何も証明できなかった。
封筒の中身を見ていなかった。
笠間さんが夜十時にどこへ行ったのかも知らない。
あの坂の上で何が起きたのかも知らない。
ただ、笠間さんがいなくなった部屋を見ただけだった。
荷物が残っていて、窓が開いていて、本人だけがいない部屋を見ただけだった。
それでも、分かっていた。
あれは退職ではない。
笠間さんは、仕事が嫌で逃げたのではない。
だが、阿部はそれ以上何も言えなかった。
言えば言うほど、自分がおかしく見える。
夜十時に女の子が出る。
その子に話しかけると部屋まで来る。
最後にはいなくなる。
そんな話を、誰が信じるだろう。
それに、阿部自身も怖かった。
佐藤の時も、笠間さんの時も、自分は近くにいた。
二〇五号室にいて、隣の二〇四号室で起きていることを知っていた。
知っていたのに、助けられなかった。
そして、深く関われば、次は自分かもしれない。
そう思うと、何もできなくなった。
自分を責める気持ちと、関わりたくない気持ちが、胸の中でずっと混ざっていた。
そんなある日の夕方、阿部の部屋の呼び鈴が鳴った。
阿部はしばらく動けなかった。
呼び鈴の音が、やけに大きく聞こえた。
もう一度鳴る。
阿部はゆっくり玄関へ向かった。
ドアスコープを覗く。
そこに立っていたのは、見覚えのある男だった。
笠間さんの上司だった。
阿部は少し迷ってから、扉を開けた。
「こんばんは」
上司は軽く頭を下げた。
「以前はお世話になりました」
「いえ」
阿部は短く答えた。
お世話になりました。
その言葉が、どこか他人事のように聞こえた。
「あの、何か?」
「急にすみません。ご挨拶だけと思いまして」
上司は二〇四号室の方をちらりと見た。
「今度、またこちらの部屋を使わせていただくことになりました」
阿部は一瞬、意味が分からなかった。
「こちらの部屋、というと」
「二〇四号室です」
上司は当然のように言った。
「笠間の後任の者が、しばらくこちらに入ります。隣同士になりますので、ご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
阿部は、すぐに返事ができなかった。
二〇四号室に、また人が入る。
笠間さんがいなくなった部屋に。
佐藤がいなくなった部屋に。
何もなかったかのように、新しい社員が入る。
「あの部屋は」
言いかけて、阿部は止まった。
あの部屋はやめた方がいい。
もう誰も入れない方がいい。
そう言いたかった。
喉元まで出かかった。
けれど、上司の顔を見た瞬間、言葉が止まった。
言ってどうなる。
この男は、笠間さんの手紙を退職願として処理した。
荷物が残っていても、窓が開いていても、仕事が嫌で出ていったのだと受け取った。
今さら阿部が何を言っても、まともには聞かれないだろう。
「どうかされましたか?」
「いえ」
阿部は首を横に振った。
「何でもありません」
「そうですか」
上司は少しだけ不思議そうにしたが、深くは聞かなかった。
「新しく入る者は田中といいます。まだ若い社員ですが、真面目な者ですので」
「田中さん」
「はい。田中美佐という女性社員です」
女性か。
阿部はそう思った。
それだけで、胸の奥に嫌なものが沈んだ。
男でも嫌だった。
誰が入っても嫌だった。
だが、何も知らない若い女性が、あの二〇四号室に入ると聞かされると、怒りに近いものが湧いた。
会社は何を考えているのか。
笠間さんのことを、本当にそれで終わりにするつもりなのか。
何も調べず、何も疑わず、また社員を入れるのか。
「それでは、よろしくお願いします」
上司は頭を下げた。
「何かありましたら、会社の方へご連絡ください」
何かはもう起きている。
阿部はそう思った。
けれど、声にはならなかった。
上司が去ったあと、阿部はしばらく玄関に立っていた。
二〇四号室の扉を見る。
閉まっている。
何も聞こえない。
ただの空き部屋に見える。
けれど、阿部にはもう、ただの部屋には見えなかった。
その数日後、管理会社の女性がマンションに来た。
笠間さんが相談していた、あの女性だった。
阿部は入口で顔を合わせた。
「あ、阿部さん」
女性の方から声をかけてきた。
「少し、いいですか?」
「はい」
阿部は立ち止まった。
女性は二〇四号室の方を見たあと、声を落とした。
「笠間さん、最近連絡もないし、おみかけしないんですけど」
阿部は、すぐには答えられなかった。
女性の顔を見る。
彼女はまだ何も知らないようだった。
あるいは、薄々分かっていて、確かめようとしているのかもしれなかった。
「いなくなりました」
阿部は言った。
「え」
「会社の方では、退職扱いになったそうです」
女性の顔色が変わった。
「退職扱い」
「はい」
「そうですか……」
女性は唇を噛んだ。
何かを言いかけて、やめたようだった。
「調べてくださっていたんですよね」
阿部が言うと、女性は小さく頷いた。
「少しだけです。でも、はっきりしたことは分かりませんでした。古い担当者に聞いても、あの坂の女の子の話は知っているけれど、詳しい記録は残っていないと言われました」
「そうですか」
「すみません。もっと早くお話しできればよかったんですが」
女性は、本当に申し訳なさそうに見えた。
阿部は、責める気にはなれなかった。
この人も、たぶん怖かったのだ。
「私、来週から担当が変わるんです」
女性が言った。
「この物件には、別の者が来ることになります」
「そうなんですか」
「はい。ですので、ご挨拶も兼ねて」
阿部は少し迷った。
そして、思い切って言った。
「あの、もしまた何かあったら、連絡してもいいですか?」
女性は一瞬、驚いた顔をした。
それから、周囲を気にするように見回した。
「会社の番号ではなく、私のですか」
「はい」
「本当は、あまりよくないんですけど」
女性は小さなメモに番号を書いた。
「何かあれば、出られる時は出ます。ただ、私にもできることは少ないと思います」
「分かっています」
阿部はメモを受け取った。
それでも、何もないよりはよかった。
誰か一人でも、あの部屋のことを普通ではないと思っている人間がいる。
それだけで、少しだけ救われる気がした。
女性は最後に、二〇四号室の扉を見た。
「本当は、あの部屋を使うのはやめた方がいいと思います」
小さな声だった。
阿部は顔を上げた。
女性はそれ以上言わず、軽く頭を下げて去っていった。
その言葉だけが、阿部の耳に残った。
それから数日、阿部は夜勤が続いた。
仕事の都合だった。
夜に出て、朝方に帰ってくる。
昼間に眠り、夕方に起きる。
そんな生活が続いた。
夜十時には、阿部はマンションにいなかった。
それは少しだけ安心でもあった。
あの時間に、あの坂を見ずに済む。
二〇四号室の物音を聞かずに済む。
だが、同時に不安でもあった。
その間に、何かが起きているのではないか。
新しい社員は、もう入ったのではないか。
あの部屋で、何も知らずに夜を迎えているのではないか。
そう考えても、阿部には確かめようがなかった。
朝方に帰ってくると、二〇四号室の前には新しい傘が立てかけられていることがあった。
ドアの前に小さな段ボールが置かれていたこともあった。
誰かが入ったのだ。
それは分かった。
けれど、阿部はその住人と顔を合わせなかった。
夜勤が終わり、通常の勤務に戻った日の朝だった。
阿部が部屋を出ると、ちょうど隣の二〇四号室の扉が開いた。
中から出てきたのは、若い女性だった。
二十代半ばくらいだろうか。
髪を後ろで軽くまとめ、まだ新しい仕事鞄を持っている。
目が合うと、彼女は明るく笑った。
「あ、おはようございます」
「あ……おはようございます」
「二〇四号室に入りました、田中美佐です」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「阿部さんですよね。上司から聞いています。お隣とのことで、しばらくお世話になります」
明るい声だった。
何も知らない声だった。
阿部の胸が痛んだ。
この人は、知らない。
笠間さんがどうなったのか。
佐藤がどうなったのか。
二〇四号室の窓が、朝に開いていたことも知らない。
夜十時に、丘の上の街灯を見てはいけないことも知らない。
「あの」
阿部は言った。
喉がひどく乾いていた。
「少し、話があるんですが」
「すみません」
田中は申し訳なさそうに眉を下げた。
「まだ入ったばかりで、今日ちょっと早く行かないといけないんです。会社の手続きも残っていて」
「ああ」
「また今度でもいいですか」
田中は笑った。
「隣ですし、すぐ会えますよね」
阿部は何も言えなかった。
今言わなければいけない。
そう思った。
夜十時に、坂の上を見てはいけない。
女の子がいても、目を合わせてはいけない。
声をかけてはいけない。
話しかけられても、返事をしてはいけない。
そう言わなければいけない。
けれど、言えなかった。
朝の廊下で、初対面の若い女性にそんな話をすればどうなるか。
変な隣人だと思われる。
怖がられる。
会社に連絡されるかもしれない。
阿部は、また一瞬迷った。
その一瞬の間に、田中はもう階段の方へ歩き出していた。
「では、行ってきます」
「あ、はい」
「いってらっしゃい」
田中はもう一度頭を下げ、足早に階段を下りていった。
阿部は廊下に残された。
二〇四号室の扉が、静かに閉まっている。
新しい表札はなかった。
ただ、そこに誰かが住み始めた気配だけがあった。
大丈夫だろうか。
阿部はそう思った。
言わなければならない。
今度こそ、最初に言わなければならない。
見てはいけない。
目を合わせてはいけない。
話しかけてはいけない。
そう伝えなければならない。
けれど、その日の阿部には、もうそれ以上何もできなかった。
そろそろ、夏も終わる時期だった。




